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吉野ヶ里

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吉野ヶ里遺跡の古代の国名と国神がホツマツタヱで明らかになりました 
ジョンレノ・ホツマ

吉野ヶ里遺跡の場所についての記述が、古代の歴史書であるホツマツタヱの中に、見つけましたので紹介させていただきます。

ホツマツタヱは、「おしで文字」と言う古代文字でしるされており、古事記・日本書紀が編纂された時期より古く、紀元241年ごろに編纂筆録されたものです。
そのホツマツタヱの後半(38綾・章)に、「おしろわけ」景行天皇が九州の熊襲征伐に御幸された記述があります。
最初は、何度読んでも、吉野ヶ里遺跡に関連する国が見当たりませんでした。

ホツマツタヱの記述では「おしろわけ」(景行天皇)が御幸されたのは、即位12年目、「ひしろ」(日代)の暦十二年です。神武天皇の時の暦のあすず暦では800年に出発されています。現在の暦との整合性ははっきりしませんが、いずれにしろ、紀元100年~200年頃と考えられています。
 宇佐から太平洋側を南下して、途中、高屋(宮崎県)というところに6年間滞在した後、帰りは、有明海の方を経由して北に向かわれています。ほぼ、九州全土を一周されています。

 吉野ヶ里遺跡のあった当時の国は、景行天皇の御幸された年代には、既に消滅していたのか、あるいは、もっと以降になって勃興したため、この景行天皇の御幸の時になんら接点がなかったのかとも思っていました。古代においては、かなり大きな国であったと思われましたし、景行天皇の御幸の行程に一言も出てこないはずはないと踏んでいました。

 御幸の行程から判断して、唯一該当すると考えていた個所の「おしで文字:古代文字」を「ひらがな」訳で書き直してみると以下のようになりました。
( )の数字は「ホツマツタヱ 和仁估安聰釋述: 日本翻訳センター発行」の(綾-頁)です。

 やつめをこえて(38-71) 「や」は数字の8を表す文字です
まえやまの あわみさきみて(38-72)
きみいわく たゝみうるわし
かみありや みぬさるをうみ(38-72)「を」は特別な意味の「を」です
もふさくは やつめひめかみ 「や」は数字の8、「ひ」は「人」を表す文字です
みねにあり(38-73)

 私のホツマツタヱ勉強会の師である高畠精二先生のHPの訳を参考に、今までに解読されていた内容は以下のようになります。

 「八女県(やつめ)を越えて、まえやまのあわみさきを見て、君(景行天皇)は、畳の目ように山の峰が重さなりあっている所だ。うるわしい国神ありやとお聞きになりました。
 このとき、「みぬさるおうみ」(水沼県猿大海・福岡県三瀦(みずま)郡大川市)が申し上げるには、「やつめ姫神」が此処を治めています。山中に住んでおられます。」

 この内容を私なりに掘り下げてみると以下のようになります。

「やつめをこえて」の「やつめ」(八女)は現在の八女(やめ)に残っていると考えます。
これは、後世に漢字が渡来し、「やつめ」という言葉に「八女」という漢字を当てはめ、時代と共に音読みされ、現在のように「やめ」と呼ばれるようになったものと思われます。

次に「まえやまの あわみさきみて」の前山は普賢岳の前にある眉山の事と考えます。
 これは、「街道の日本史53 佐賀・島原と長崎街道:吉川弘文館発行」の中に、雲仙普賢岳の噴火の記載が載っていました。そこには、寛政四年の大噴火で溶岩流の流出で眉山(まゆやま・前山とも)の東半分が大崩壊したとの記録がありました。
 多分、この眉山のことを見ながら通過されたと思います。当時と現在では山のかたちも違っていたと思います。

 その次の、「あわみさき」について、特定できませんが、弥生時代、海岸線は今より奥まっていて(海抜が高かった)、現在の吉野ヶ里遺跡付近も海岸線に近かったと考えられます。よって、吉野ヶ里遺跡の近辺に「あわみさき」という地名があったのかもしれません。

 「八女を越えて」とあるので、八女もまた当時海岸に近かったことを考えると、八女付近から、パノラマ状に有明海が目の前に広がり、対岸には、左から順番に眉山(前山)、雲仙岳、多良岳、経ヶ岳、八幡岳、天山、背振山(吉野ヶ里)と山の峰が重なり合って見えたのではないかと推定します。

最後の「やつめひめかみ みねにあり」ですが、「地図でみる西日本の古代: 平凡社 2009年5月発行」 に記載されている参考資料の古代「延喜式」の郡名・郡界一覧④の九州地方の地図に、景行天皇が御幸された当時の国の名前がそのまま残っていることを見つけました。
 そして、どこかにヒントが隠されていないかと注意してみると吉野ヶ里遺跡の付近は、古代の郡名が「三根」(みね)と、はっきりと表示されていました。

 すなわち、「やつめひめかみ みねにあり」の「みね」は、峰や山の中に住んでいたということではなく、「三根」という地名を示していたことがわかりました。

 現在でも、三根東小学校、三根西小学校、や三根中学、町役場三根庁舎などの「三根」という名前が残っていることがこれらの事実を裏付けているようです。


よって、この私の推論を認めていただければ、現在の吉野ヶ里は「やつめ姫神」が治めていた「八女国(やつめ:やめ)」であったことになりますし、吉野ヶ里の国は女王国であったことも同時に確認できたことになります。

 更に、「みぬさるをうみ」の話した内容から、この「やつめ姫神」は、吉野ヶ里という一部分だけでなく、島原半島までの広範囲を治めていたとも受け取れます。
そして、現在の「八女」という地名が、この地を治めていた当時の女王の名前であったことに納得できます。

 たった、12文字の「やつめひめかみ みねにあり」だけで、前後にそれ以上の詳細には触れていないことから、この女王と会うこともせずに素通りしたことになります。あるいは、避けて通ったとのかも知れません。

それまでの訪問先では御饗などの歓迎を受けていたことを考え合わすと、当時のヤマトの中央の権力が、この「やつめ姫神」の勢力範囲には、及んでいなかったこともわかり、静かに大陸から押し寄せてきていた力関係が行間からにじみ出ているようです。

その結果、景行天皇が帰国されてからホツマツタヱを編纂して後世に残す作業に至ったのも、近い将来、大陸からの力を、もはや食い止められなくなると覚悟していたのではないかと考えます。

 参考までに、この「やつめひめかみ みねにあり」の部分を「三書比較」により、古事記、日本書紀を参照してみました。

古事記にはこの部分の記載がありませんでした。

日本書紀には以下のように記されていました。

「有女神。名曰八女津媛。常居山中」
「まします、ひめかみ。なをいうやめつひめと。つねにまします、やまのなかに。」
とあり、「みねにあり」を「山の中」と漢訳されたからだと思われます。
 
 
以上
参考文献
「ホツマツタヱ 和仁估安聰釋述: 日本翻訳センター発行」
「ホツマツタヱ 小笠原長弘筆録: 日本翻訳センター発行」
「街道の日本史53 佐賀・島原と長崎街道: 吉川弘文館発行」
「地図でみる西日本の古代: 平凡社 2009年5月発行」
「定本ホツマツタヱ -日本書紀・古事記との対比 三書比較 松本善之助監修 池田満著: 展望社発行」 
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by hon-hotsuma | 2014-01-09 19:26

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