ほつまつたえ


Hotsuma tsutae feelings
by hon-hotsuma
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海幸彦・山幸彦の物語 その1 生い立ち

ホツマ・エッセイ 

この物語は、児童書や絵本の古典としても有名ですが、詳しくは覚えていなかったので図書館にある児童書を借りてストーリーに目を通して見ました。
今、解読中のホツマツタヱ25綾に、この海幸彦・山幸彦が出てきたからです。

この綾の解読が難解なのに面白いのは、表向きに作られた話と、表沙汰に出来ない当時の機密事項が重ね合わせていると思われるようです。
また、立場上、触れたくない内容、不具合な状況など、簡単に事実のみ一言二言書いているだけで、省略されていたり、時間の経過が前後していたり、話が突然とんでいたりするから良く分からない所があるからです。

何が隠されていて、この話にひきつけられるのか、この二人の背景や行動を整理して見れば、問題点が浮かび上がってくるのではないかと思いました。

物語にでてくる主人公である、海幸彦・山幸彦は三つ子の次男と三男です。天照神の曾孫に当たります。
父親は天孫ニニキネ(天照神のお孫さん)になります。母親は「このはなさくや姫」と言います。

生い立ちの始めですが、父親になる天孫ニニキネが、八洲巡り(日本全国の現状を把握)のため、馬に乗った80人ものお伴を従え、開拓しながら御幸していました。
途中、一行を迎えた酒折宮で、ニニキネに御膳を捧げたアシツ姫(大山祇園の下の娘・後の「このはなさくや姫」)と、旅先で一夜の契りを結ぶことになります。
アシツ姫は妊娠し、途中いろいろなことがありましたが最後にハッピーエンドに収まります。この詳細は、以前の「このはなさくや姫」の物語にありますのでここでは省略します。

さて、主人公の一人、海幸彦は三つ子の次男でホノススミ・サクラギと言い、スセリという名前もついています。
吹き出物が出来、酢芹草(スセリ)で掃き清めたら枯れ癒えたのでスセリとも言うようにもなりました。
住まいは、当初、新治宮(茨城県)に住んでいましたが、後に滋賀県の高島市、鵜川(琵琶湖の西側)に移ります。

三男の山幸彦はヒコホホデミ・ウツキネと言い、日光二荒山のふもとの宇都宮に住んでいました。
ウツキネの「ウ」は、卯の花の「う」から来ており、住んでいたところをウツキネのウツを取って「ウツ」の宮とも呼ばれ、今の宇都宮の語源にもなっています。

鵜川(琵琶湖の西側)に住みたいと申し入れたが許されず、滋賀県大津市の「シノ宮」(磯の宮・琵琶湖の南側)という所に移ります。

なお、三つ子の長男はホノアカリ・ムメヒト(梅仁)というハラ君でハラミ山(蓬莱宮・現富士山)の麓に構えていました。

さて、話がかわり、筑紫(九州)で反乱が起きているので皇子に来るよう要望があり、時の天皇であったニニキネはシノ宮(三男坊のウツキネ)に筑紫の親王になるよう命じます。九州を統率する最高責任者です。

この後、話が飛んでおり、このシノ宮(三男)が兄(長男)のハラの宮(ムメヒト)にあいさつに行き、暇を乞い願いに行っています。
頭の中で辻褄が合わず如何したものか考えあぐんでいましたが、やっと納得できるようになりました。
それは、任命されて、筑紫(九州)へ馳せ参じて向かったものの、手に負えず、すごすごと引き下がってきたから、そこの記述が一切触れられていないことを知ったからです。

父親に報告する前に、兄のハラ宮(ムメヒト)へ助けを求めに行ったものと分かりました。そこから、兄のムメヒトと一緒に瑞穂の国に居られる天君(ニニキネ)に謁見に行っています。

報告を聞いて、筑紫(九州)での反乱について、食糧不足が原因であるから、解決までには長期間かかると見ています。天皇(ニニキネ)自らが行って解決しなければと判断されます。
紀元前2500年ごろ九州で大戦乱の跡が残っているのはこの時のことかも知れません。背景には、人口増加によるものと考えられ、大陸から大挙して渡来してきた人たちとの間で食料の取り合いでもめていたものと考えられます。そのため、根本解決のため水田開拓に精を出されます。弥生時代の始まりにも結び付きます。

天皇自らが九州へ行くと同時に、二人の息子(この、海幸彦・山幸彦)に北の津(今の敦賀・今回選抜高校野球で優勝した敦賀気比高校の地元)に行くよう命じています。
ここでも、渡来系の人との間でもめ事が起きていたからだと思われます。

この北の津(今の敦賀)で、二人はある日のこと、持ち物を交換しようという話の展開になります。

次回に続く。
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by hon-hotsuma | 2015-04-17 08:35 | Comments(0)

書感 日本発掘!ここまでわかった日本の歴史 

e0191707_8333014.jpg日本発掘!ここまでわかった日本の歴史 文化庁編 朝日新聞出版 2015年2月発行

本書は文化庁主催「発掘された日本列島」展20周年を記念し、江戸東京博物館で開催された「えどはくカルチャー」連続講演会「日本発掘! - ここまでわかった日本の歴史」をもとに1冊にまとめたものとあります。7人の著者が、旧石器時代、縄文時代、弥生時代、古墳時代、古代、中世と時代ごとに分けてまとめています。

 比較的平易に書かれており、最近になって発見された遺跡や遺物の情報のいくつかは、ホツマツタヱの記述内容を裏付けるものであったり、今後の関連性が見つかる可能性のある記述があったりして、私なりに期待できる一冊です。
考古学は石器の形、組み合わせ、どの地層に埋まっているかで遺跡や遺物を評価しているが、さらに遺伝学では古い骨からDNAを取り出し、データベース化されいずれウェブ上でも公開されるようになれば新たな発見に期待できそうです。

本書の中から私が幾つか興味のあった事例を列記して見ます。

1、ストーンサークルについて
今まで大湯環状列石(秋田県鹿角市十和田)しか、頭に入っていなかったが、他でも、大規模な環状列石が見つかっており、一つ気になったのは岩木山の麓の大森勝山遺跡(青森県弘前市)です。冬至の太陽の沈む位置が岩木山山頂になるように作られているということです。
この位置関係は、後に各地に神社が作られたとき、何か共通する可能性を機会があれば検討して見たいきっかけになりました。

2、縄文土器について
力強さを感じ、いつも不思議な気になります。

3、青銅器の鋳造について
特に気になったのが、吉野ヶ里遺跡跡で銅鐸が出土した事例です。近畿や九州だけでなく、日本の各地で青銅器を鋳造していることが新しく発見され、九州説、畿内説とかいう邪馬台国論争は幕を閉じたと考えるとあり、戦前からの著名な学説が否定されてきていることは喜ばしいことです。

4、土器について
卑弥呼の墓かと言われている奈良県桜井市の纏向遺跡から、東海、山陰、北陸、九州など各地の土器も出土していることから当時の時代認識も新たになってきています。
ホツマツタヱの記述では、纏向遺跡は景行天皇の居られたところで、全国の豪族の娘さん8人をお妃にしており、子供の総勢81人と末裔は広がったとあります。

同じくここも卑弥呼の墓かと言われている箸塚古墳ですが、ここからでてくる土器から瀬戸内海の吉備地方、岡山の倉敷、更には出雲との関係が分かってきて、広範な地域の動きがあったことが分かってきたとあります。箸塚古墳は大物主の妻となった「ももそ姫」が祀られたとホツマツタヱの34綾にあります。大物主は「そさのお」の何代目かの子孫なので、出雲と関係があったことも頷けます。

この二つの事例からも、著者の方々が、ホツマに目を向けてくれれば、あるいは内容を知っていてくれたらと思うことしきりです。

本書の前書きにも、あるように考古学は謎解きの学問とも言われており、まさに発掘内容から謎が解かれつつある現状について述べられています。
少しづつではあっても、発掘の解析が進展してきてホツマツタヱの解読内容との距離が近づいてきているような気がしてきました。


以上
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by hon-hotsuma | 2015-04-17 08:33 | Comments(0)

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