ほつまつたえ


Hotsuma tsutae feelings
by hon-hotsuma
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ホツマ・エッセイ 歌は心を洗う

ホツマ・エッセイ 歌は心を洗う

古代の人は、禊ぎは身体の穢れを落とし、歌は心を洗うと言っていました。
今回、歌の持つ偉力を実感した二つ目のケースとして、取り上げてみました。二人の間が行き詰っても、最後に解決したのが歌だったからです。
ホツマツタヱ26綾からの抜粋になります。

「ヒコホホデミ」と「トヨタマ姫」との話です。今風に言えば、波乱万丈の物語です。
ヒコホホデミは、「天孫ニニキネ」と「このはなさくや姫」との間に三つ子の末っ子として富士山の麓で生まれ、かっては山幸彦とも呼ばれていました。
一方、トヨタマ姫は九州出身で、ハデヅミ(住吉の神の孫)の娘になります。
当時、九州を治めていたヒコホホデミに、瑞穂の国(滋賀県)に居られた父親である天孫ニニキネから、「天つ日嗣」を譲る(天皇の位を引き継ぐ)ので至急戻ってくるよう伝令が入ります。

天孫ニニキネは、「天つ日嗣」を受け継いで別雷神(わけいかつちの神)となられておりましたが、「天つ日嗣」をヒコホホデミに譲ることに決めました。
天孫ニニキネは日嗣を譲ってからは大上君と称せられます。
この伝令が「おしか」(勅使)によって、筑紫(九州)の親王(おきみ)であったヒコホホデミに伝えられます。
九州を治めている32神は、今までお遣いしていたため、別れることを惜しみました。しかし、日嗣が決められた以上32神は「よろとし」(万・歳)と祝いました。
そして、ヒコホホデミは、筑紫(九州)から、淡海(琵琶湖)の瑞穂の宮に向けて御幸することを決めました。

志賀の浦(志賀島・博多湾)から日本海を北津(敦賀)へ舟で戻ることになりますが、その時、お妃であったトヨタマ姫は妊娠しており、臨月間近になっていました。
そこで、ヒコホホデミは一番速い「大ワニ舟」に乗り、先に行って産屋(うぶや)を作っておくことにしました。
「大ワニ舟」に乗ったヒコホホデミは、志賀の浦から北の津(敦賀)に着き、上陸後、「いささわけ」(伊佐々別神社・気比大神)を経由して、滋賀県の「みつほ・瑞穂」の宮にご帰還されました。
「わけいかづち」の天君も、臣たちも共に、ヒコホホデミの無事のご帰還を喜びました。

一方、お妃(トヨタマ姫)は、生まれてくる子供のためにも、揺れが少なく乗り心地の良い「カモ舟」で北の津(敦賀)まで後から追い駈けて行くことにしました。

ヒコホホデミは北の津(敦賀)に到着するやいなや、松原に産屋を作り始めました。しかし、棟(天上部分)がまだ完成する前に妃(トヨタマ姫)を乗せた舟が到着してしまいました。
臨月を迎えていた妃は、完成まで待っていられないので、そのまま産屋に入って皇子を生んでしまいました。

しかし、この妃の乗ったカモ舟は途中の渚で座礁して割れて、皆、海に落とされてしまう事故に遭います。しかし、溺れることなく、姫はお腹の中の子種を守ろうと必死で磯まで泳ぎ着きます。
その後、磯で見つけた釣り船に乗り、美保崎(島根県三保関)でワニ舟を見つけて乗ることが出来ました。そのため予定より早く到着出来ることになりました。

当時は沖合ではなく、渚に近い(海岸線に近い)ところを航行していて座礁して舟が割れてしまったのだと思います。

さて、ここから大問題が生じます。

男は産屋を覗いてはいけないと注意されていました。更に、当時、産後75日間は母体が元通りになるまで性交渉はいけないとされていました。

君(ヒコホホデミ)は、この北津の松原に涼みに来て、産屋の様子が気になったので、覗いて見ると、たまたま隙間が開いており、あられもない妃の姿を間近で見てしまいました。何も着ておらず、腹這いになって寝ていたからです。

見てはいけないものを見てしまい、慌てて開いていた戸を閉めてその場を立ち去りました。しかし、妃はこの物音で眠りが覚め、あられもない姿を見られた恥ずかしさで一杯になり、居ても立ってもいられなくなってしまいました。

恥ずかしさのあまり、もうここには居られないと、生まれたばかりの赤ん坊を抱きかかえ、弟の「たけづみ」と産屋を後にして、遠敷(おにふ・福井県小浜市東小浜)の宮に行き着きました。
 この遠敷の宮で、母(トヨタマ姫)は皇子を抱きしめ、眉・目を見つめながら、皇子に向かって、母は恥をさらしてしまい、もうここにいることは出来ないので、国に帰ります。もう二度と貴方にお目にかかることはないでしょう。 と別れの言葉を言い残し、皇子を置いて行きました。

この皇子は後に「カモヒト・ナギサタケ・ウガヤフキアワセズ」の命という長い名前を賜わり、神武天皇のお父さんになられる方です。

皇子を置き去りにした、トヨタマ姫と弟の「たけづみ」は、朽木川(滋賀県高島市朽木村・安曇川の支流)の添って登り、山を越えようやく三日目に「わけつち山」の北側の「みずはめの社」(貴船神社)に着き、休むことが出来ました。

この事態が「みつほ」宮に伝え知らされたため、皆驚き、「ほたかみ」(穂高見・トヨタマ姫と兄弟)に、トヨタマ姫がその場所(貴船神社)から、一歩も動かないよう説得に向かわせました。
穂高見は朽木谷(滋賀県高島市朽木村・安曇川の支流)を西から南へと、山を越えて、トヨタマ姫のいる「みつは」の宮(みつはめ・貴船神社)に行き着きました。
トヨタマ姫に「瑞穂宮」に帰るよう説得しますが、ガンとして聞き入れませんでした。やむなくトヨタマ姫と一緒にいる弟の「たけづみ」に、この場所を動かないようにと言い含めて、一旦、馳せ帰りました。

心を閉ざしたトヨタマ姫の頑なな気持ちを説得するために、というよりも、日嗣の儀(大嘗祭)をとりおこなう大事な時を前に、お妃がいなければ事が進まないからです。正に緊急事態であったからです。
事態を重く見た「瑞穂宮」は、遂に九州に居るトヨタマ姫の父親の「はでつみ」とトヨタマ姫の妹の「おと玉姫」を、一番速度の速いワニ舟で上京させました。
父親と妹は、瀬戸内海を舟で西の宮に着き、そこから「やましろ」(山背国・京都・貴船神社)に到着し、娘のトヨタマ姫に会います。
父親の「はでつみ」は、君のいる「瑞穂宮」に行くよう説得しますが、トヨタマ姫は国へ帰るので上京はいたしませんと頑なに拒否しました。

トヨタマ姫は、父親に私の代わりに妹の「おと玉姫」を君に捧げてくださいと頼みました。やむなく、父親の「はでつみ」と妹の「おと玉姫」は、共に都へ上京して、このことを申し伝えました。
君(ヒコホホデミ)は、この申し出を受け入れて、妹の「おと玉姫」を妃に召上げました。

大上君は、天の日嗣を若宮(ヒコホホデミ)に捧げるため、「シノ宮」(ヒコホホデミが住まわれていた)に、お出ましになり、瑞穂宮(滋賀県)では、新治宮(茨城県)の前例に倣って「ゆき」・「すき」の宮を作り、大嘗祭をとり行いました。

君(ヒコホホデミ)は、トヨタマ姫に戻るよう説得してきましたが、「みつはめの宮」(貴船神社)を出ることはありませんでした。
 
明くる年になり、大上君は、わけつち山から、葵と桂の枝葉を袖に掛けてトヨタマ姫のいる貴船神社に行き着きました。

大上君は、持ってきた葉を示して、どちらも左右対称の双葉で片方が欠けている葉はありません。葵も桂も左右対称の双葉だからこそ、葵の葉であり桂の葉と言えるのです。

貴女は世を捨てて人の道を欠いているのではありませんか。と問われ、トヨタマ姫は、自分の取っていた行動に気が付き、恐れながら、人の道を欠いているとは思いませんでした。と答えます。
舟が割れて海に落ち、着ているものを脱ぎ捨て、渚を必死で泳ぎましたが、肌をさらしたあざけりを受けました。産屋では身に何もまとわないで腹這いになっている所を見られてしまい恥を更に重ねてしまいました。どうして、今更、宮に上ることが出来るでしょうか。とトヨタマ姫は答えました。

大上君は、貴女の言うことは恥でも何でもありませんよ。
勝手神が以前申されていたように、覗く恥は貴女にではなく、覗いた君が悪いのです。
しかしながら、左右一対の葵桂の葉のように伊勢の道(男女の道)を得れば、「ひとい」(人の意・相手の気持ち)を悟ることになります。

葵の葉は女性を表し、桂の葉は男性を表していることが分かります。

この大上君の御幸に美穂津姫が付き添ってきておりました。
美穂津姫とはクシヒコ(コトシロヌシ・二代目大物主・通称恵比寿様)の妻です。

大上君が美穂津姫に意見を求めたところ、うなずかれ大上君に御心を痛めることはありません。君ヒコホホデミと姫(トヨタマ姫)とは、日(太陽)と月の関係のように共に睦まじくなさりますよ。なくてはならない関係です。と申されました。

これを聞いて、大上君は喜び、「たけづみ」に豊玉姫を養生させよと河合の国(京都市左京区、高野川と加茂川の合流付近)を賜わりました。

その後、大上君は、貴船神社の山奥の谷を出て、「むろつ」(兵庫県たつの市御津町室津)に着き、ここで遺言をされ、亀舟の到着を待ちました。
「むろつ」で、大上君の御幸の門出を見送り、亀舟に乗った大上君は瀬戸内海を経由して鹿児島に向い、「そお」(曽於)国の高千穂の峰に敬意を捧げました。

大上君は高千穂の峰(霧島山)から「あさま」(朝間・浅間神社・富士山)の方から昇る太陽(日の霊・日の出)に向かってご来光を祈ります。
そこで、この地を「ひむかう国」(日向国)と名付けました。

「ほつま国」に居られる姫(このはなさくや姫)は、「あさま」(朝間・浅間神社・富士山)から、月が沈む西の方角に向かって、月の霊にお辞儀をして敬意を捧げました。
月が西に沈むように、妃(このはなさくや姫)の御霊は、高千穂の峰(霧島山)に沈み、神となられました。
このはなさくや姫は、生前、「あさまの神・浅間神社」や「子安神」と称せられました。

時同じく「いづの神」は、別雷神(わけいかづち)の「すべら神」とも称せられ高千穂の峰の神となりました。
西と東で遠く離れていてもお互いの方を向いて同時に神上がり(お亡くなり)しました。御霊は同じところに居られると言っているようです。

このお二人の神上がりを知ったトヨタマ姫は「わけつち山」(別雷神山)で、48日の喪に服し、その後の一周忌では御饗(みあえ)をして祀りました。

天君(ヒコホホデミ)が、このトヨタマ姫の行いを知り、天児屋根に「よりを戻す」良い方法は何かないものかを尋ね、父上と母上の時の前例があることを知り、更に美穂津姫に詳しく聞いたところ、歌を詠むことを勧められました。

そこで、早速、君(ヒコホホデミ)は、歌にしたため、その歌札を美穂津姫が自分の孫の「いそより姫」に遣わせました。

トヨタマ姫は「いそより姫」を迎い入れ、君からの歌を詠みました。

沖つ鳥 鴨着く島に
我が寝ねし 妹は忘らじ
世(夜)の事々も

沖つ鳥が餌を探し求めてさ迷い歩いているかのように、鴨舟が島に着いたとき(天下・神々から下々まで範疇にして)以来、私はずうっと貴女を探し求めているのです。
私は愛を語らい寄り添って一緒に寝たときの貴方のことは今でも忘れられません。その夜のことも一日たりとも忘れたことはありません。

「いそより姫」は、更に美穂津姫から預かった歌も詠みました。

忌みといい 汚れを絶つる
日の本の 神の心を
知るひとぞ神


出産後の忌み(穢れを避けて謹慎すること)として、穢れを断つために、身を隠してこられました。75日も過ぎ、謹慎期間は既に終わっており、晴れて日の当たる表に出られては如何ですか。
太陽の元の神は君のことであり、君の心を知る人こそ神ですよ。

この歌を受け取ったトヨタマ姫は、返し歌をしたためて、葵の葉に包み、君の歌を桂の葉に包んで、水引草で結び、文箱におさめました。

「ミヒキ草」(水引草・ミズヒキ)とは、紅白に見える花序(かじょ・赤白の花の配列)が水引に似ていて、後に寿に水引が使われるようになった原型がここにあったことを知りました。

この文箱を「いそより姫」は持ち帰り、君に捧げました

君は自ら受け取った文箱の結びをほどき、トヨタマ姫からの歌を詠みました。

沖つ鳥 鴨(天下・神々から下々まで)を治むる
君ならで 世(夜)の事々を
えやは防せがん


さ迷い歩いている沖つ鳥のように貴方が、鴨舟が島に着いた(天下・神々から下々まで範疇にされた)とき以来、貴方以外には今までさ迷ってきた私の「えや」「えやみ・疫病・心の病)を取り除いてくれる人はおりません。


このトヨタマ姫からの歌を三度詠まれた君は涙が止まらず、膝の上に置いていた葵葉に涙が落ち、裳が染まりました。この歌によって二人の気持ちが通じて、お迎いの御輿にトヨタマ姫を乗せて、宮入りし、天下晴れての中宮となられ、万人が喜びました。

今でも、歌は心を癒してくれますが、親子二代にわたって二人が結ばれた、心に響く歌と、この波乱万丈の話に感動し、ホツマ・エッセイとしてまとめてみました。

この宮入りを祝して、こ葵の御衣を錦綾織に残し、菊散(ここちり)と、山葉止色(やまはといろ・山葉留彩)の綾錦を合わせて三つを神の装いとして代々伝えられることになりました。

PS: 「天孫ニニキネ」、「わけいかづち」の天君、「いづの神」、別雷神(わけいかづち)の「すべら神」、大上君は全て同一人物です。
ジョンレノ・ホツマ
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by hon-hotsuma | 2015-06-16 18:05

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