ほつまつたえ


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卑弥呼と邪馬台国 

卑弥呼と邪馬台国             ジョンレノ・ホツマ

 先週、NHKのTVで、歴史秘話ヒストリア古代史ミステリ!なる番組が目に留まりました。
卑弥呼や邪馬台国をメインにしていましたが、推論しか出てこず、残念で空しく思えました。途中で電源を切ってしまいましたが、世間ではホツマツタヱのことが知られていないのと、例え知っていても表ざたできない制約が、今も昔も取り巻いていると悟りました。

 現在、我々庶民を取り巻いている政治の世界も、原子力の世界も、放射能汚染の問題も、医療の世界も、食の問題もいずこも、権力者にとって都合の悪いことは伏せられて表に出せない現実があることを改めて思い起こした次第です。

 他の人が知らなかったり気が付かない事実を自分が知っていれば教えたくもなり、分かってもらいたいと思い、ホツマツタヱの記述の観点から解説させていただきます。

 一つは、現在発掘中の大規模な宮殿跡の纏向遺跡と卑弥呼の関係:
番組では、この纏向遺跡を卑弥呼の住まいであったのではないかと推測しています。神殿の作り方は九州の遺跡と同じで関連があったと考えられ、更には、この遺跡からは、全国各地からの陶器も発見されており、各地と交流があったことを解説していました。

 ホツマツタヱ38綾を読めば、纏向遺跡は景行天皇(人皇12代・ヤマトオシロワケ)の住まいであり、いわゆる卑弥呼とは関係がないことが明らかになるのですが、・・・。

 景行天皇のお妃たちは、播磨の吉備津彦の娘「おいらつ姫」、紀の国のうじまろの娘「やまとかけ姫」、美濃の「やさかいり姫」、その他、三尾(安曇川)など、更に九州時代の日向には「みはかせ姫」も含め8人おられました。お妃として嫁ぐときに、地元の陶器も持参されてきていると考えれば出土して当然のことと考えられます。

 景行天皇は父垂仁天皇の皇子で、ヤマトタケを含めてお子さん総勢81人も居たことが記されています。

 では、卑弥呼とは誰?という疑問について、まず漢字が分かりにくくしています。
ホツマツタヱを読んでいると、「ヒミコ」とは、「ひのみこ」・「ヒ」の「みこ」、すなわち、日・太陽の皇子という意味から、天照神の子孫のこと、天上の神をお祭りする役目でもあることが読み取れます。つまり、個人名ではなく、役目につけられた名前のことです。

 この天照神の御霊を守る役目であり、後に斎女と呼ばれており、魏志倭人伝の書かれた頃の斎女(ひのみこ)は「やまと姫」の事を示していると考えます。

 この斎女は初代が「とよすき姫」、2代目が「やまと姫」3代目が「いもの姫」と続きます。
丹後・宮津の「あさひ宮」に祀られていた天照神の御霊と豊受神の御霊は伊勢に移されます。

斎女「やまと姫」は腹違いですが景行天皇の姉にあたります。

 「やまと姫」が引退して「いもの姫」に引き継がれる時、80人の物部と12人の役人が一緒であったことが分かります。景行天皇の妃・子供たちとほぼ同じ人数を引き連れていたことになります。伊勢の斎宮跡が今後発掘されてくれば、今の纏向遺跡の規模に勝るとも劣らないものではないかと推測しています。

 更にここでは暦も作っていたという記述から、天体観測もしていたと思われ、魏志倭人伝の鬼道を占うという表現とも合致します。

「いもの姫」は引継いだ時の年齢が14才とあり、魏志倭人伝の年齢13才の記載はとほぼ同じと見なせると思います。
 ですから、斎宮が「ひみこ」の住まいであったと言えると思います。



 では、問題の邪馬台国の所在はどこか?について、

 畿内説、九州説と相変わらず盛んですが、見当違いの思い込みで言い争いをしているようで残念です。大和朝廷の目から見ての考察が主になっており、紀元前からの整然とした歴史の流れをホツマツタヱから読み解いていくと自ずと見えて来るのですが、今までのご自分の立場を守るためにもホツマツタヱを無視せざるを得ない状況であるから已むを得ないと思っています。


 今までの自分が理解している範囲ですが、

 現在、伊勢神宮の外宮に祀られている豊受神は、生まれ育ったところは仙台・日高見です。イザナミ・イザナギを結びつけて、当時の天皇家の代が途絶えそうになったことを救い、孫に当たる天照神を教育してきました。
 更に、西王母が二度も豊受神の所に教えを請い訪れているという、俄かには信じがたい記述もあり、豊受神の日高見、今の仙台地方が、まさに日本の中心であったと分かります。

 「やまたい国」の「やまたい」ですが、現在の漢字の仙台の人偏をとれば、山台となります。「やまたい」と呼ばれていた地名に、後世漢字を当てはめ、時代と共に音読みに変わったと考えることが出来ます。

 ここで、「やまたい」の「い」を敷(鴫)居や鴨居のように居場所と捉えれば、「やまた」のいた所、ある所、在り処と理解できます。

 「やまた」という地名が仙台市に存在します。仙台市太白区山田という地名も存在します。付近には古代遺跡も多数点在しているようです。

 次に、この「やまた」の意味ですが、「やま」は山、「た」は宝の「た」から、山の宝、金や銀などの貴金属、或いは、銅や鉄などの金属も含まれるかも知れません。正に黄金が山の中にあるという場所を言い表していることに気が付きました。金が埋もれている所が「やまたい」という表現になったと考えます。
 漢字化され、山田とも表されていますが、田は田んぼの田で、掘り起こして(耕して)、金属を取り出し、山から取り出した宝の意味と捉えていたことが分かります。

 天照神は「いぶきど主」に「やまた縣(あがた)」と「いふき主」という名前を賜わっています。「いふき」には伊吹山もそうですが、鋳物を吹くという意味合いがあり、まさに精錬していたことも分かります。

 西王母が2度も日本に来たのは、ホツマに記載されている表向きの理由とは別に、マルコポーロより以前の紀元前にも黄金を土産にしたかったのではないかと思いを馳せました。

 これらのことから、「やまた」・「やまたい」は、この豊受神の日高見、今の仙台地方を示していたことになると思います。
 分かりやすく言えば、現在の伊勢神宮の外宮の御祭神である豊受神が政治をとっていたところが「やまたい国」であったということになります。

 また同じ「やまた」でも「やまたのおろち」の「やまた」の意味も山の宝のことで、「おろち」はこの宝、銀・銅・鉄などを精錬するとき、付近に鉱毒による汚染の危害が及び大量死を招き大蛇のように恐ろしい悪者が現れたというのが本来の意味合いであったのではないかと思います。

 なお、三重県にも宇治山田という「やまた」が、大山田村と伊賀地方にもあり、「いぶき」とも関連あると考えられますが、更に解読が進んだ次の機会にいたします。

以上
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# by hon-hotsuma | 2014-06-17 06:39 | Comments(0)

豊受神と天照神

2014/4/2
ホツマエッセイ 豊受神と天照神   図表部分をクリックすると拡大できます。

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 キクキリ姫とすべきところを、キククリ姫のままですみませんでした。

このキクキリ姫に関連して、石川県白山市にある菊姫というお酒、昔ながらの山廃仕込みという手法の美味しいお酒を楽しんでいます。
 ホツマツタヱ4綾の中では、アマテル神が生まれたとき、シラヤマ姫が泣き声からウヒルギと名前を聴き取ったことを称えて、キクキリ姫という名を賜わります。
 本来は、よく聞き取れない霧がかかったようなところで聴き取ったので、キクキリヒメと名付けられ、いつしか、漢字が渡来して、菊桐姫という字が当てはめられと推測します。現在、シラヤマ姫の地元白山市で、菊姫というお酒に出会えたことに感激しています。
                               ジョンレノ・ホツマ   



天照神は、今までの歴史書・古事記、日本書紀を始め全て女性神として記されており、当然のように思っているため、ホツマツタヱには男性神であると言ったところで、納得できる話ではなく、その時点で、拒否されるのが現状でした。

予てより、何とか接点を見つけようと思っていました。先月、天照神誕生に至る経緯と背景をホツマツタヱの記述の中から図表に展開してみました。納得できなくとも、目で見れば、ホツマツタヱが記述している内容について、多少なりとも分かっていただけたのではないかと思ったからです。


この図表を作ったときは、天照神の誕生に至る経緯を詳細に目で追えるようにするのが目的でした。しかし、この図表が出来上がってみると、今まであまり意識することの無かった豊受神が如何に偉大であったかが見えてきたことに驚きました。
そこで、新たに、豊受神と天照神の対比ができるように追記・修正をいたしました。この、お二人の神様は伊勢神宮の外宮と内宮にそれぞれ祀られておられます。

ホツマツタヱの記述によれば、天神の始まりは初代のクニトコタチからで6代オモタル・カシコネまで続きましたが世継ぎ皇子に恵まれず、代が途絶える危機を迎えます。
その状況を察した、5代目タカミムスビが全国を駆け巡り、代々の天神の子孫の血筋の中から、後のイサナギを見つけ、自分の娘のイサナミと結ばせて皇位継承に尽力をつくします。

この5代目タカミムスビはタマギネとも呼ばれ、さらにはトヨケ神・トヨウケ神とも呼ばれ、後に漢字化されたとき豊受神と表されるようになります。
今で言う天皇としての扱いを受け「オオナメコト」(大嘗祭)を司り、東の君(キミ・今で言う天皇)としての天成道を受け継ぎました。

これらの記述から、タカミムスビが居られた日高見地方が当時の日本の中心地であったことが理解できます。仙台地方が日本の中心地であった時期が間違いなく存在していたことになります。
天照神が生まれる前、ましてや大和朝廷が生まれる前のこと、今まで、教科書で理解している歴史感の中にはなかったことです。
現在の北上川は、当時はヒタカミ川と呼ばれていたものがキタカミと聞き違えて漢字化されたものと考えられています。

驚くべきことに、東の君・5代目タカミムスビ(豊受神)に対応して、西の母君・西王母と雄大なスケールの世界が当時存在していたことが図表より確認できることです。

ウケステメ(後の西王母)は2度も来日し、イサナギ(男神)の妹に当たるシラヤマ姫と義理の姉妹に契りを結んでいます。さらに、この5代目タカミムスビに仕えていた記述もあり、タカミムスビ(豊受神)はヤマノミチノクをこのウケステメ(西王母)に授けています。

このように、5代目タカミムスビ(豊受神)は、イサナミ(女神)の父親であると同時に、後の天照神の祖父にあたり、天照神の教育もされています。
現在では天照神のお食事係とされていますが、ホツマツタヱの記述からは、天照神を生み育てあげた如何に偉大な方であったかを知ることが出来ます。




以上
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# by hon-hotsuma | 2014-04-02 11:14 | Comments(0)

ホツマツタヱ解読

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ホツマ・エッセイ 続 天照神                 ジョンレノ・ホツマ

ホツマツタヱは、5・7調の歌で、同じような内容のことがあちこちに点在しており、正しく理解するのが困難な所があります。そこで、天照神の誕生までの経緯と背景の部分を拾い上げ一つの図表に展開してみたところ、今まで曖昧であった関連が明確に見えてきました。
天照神を大文字に区別し、天照神誕生までを中心にして展開したものです。

特に、図右上の方の「タカミムスビ5代目」別の名を「タマギネ・トヨウケの神」(豊受神)が、天照神誕生のキーパーソンであったことが読み取れることです。

①天照神を生んだ「イサナギ」と「イサナミ」の二人を、仲人を通して結びつけた方であったこと。
②「ワカヒト」が天なる道を「タカミムスビ」から学んで、後に天照神になったこと。

「トヨウケ」(豊受神)は、伊勢神宮の外宮の御祭神です。現在は、食物・穀物を司る神様となっています。
これは、ホツマツタヱは漢字文化の到来以前の古代のものですが、後に漢字が到来し、「トヨウケ」という音に豊受という文字を当てはめたために意味が限定されてしまって現在に至ったものと考えます。

更に、この「トヨウケ」の居られた日高見(仙台付近)という地が、当時の日本の文明の中心であったことも推測できます。

ここでは、まだ解き明かし切れませんが、「仙台」を、音読みでなく、古代に呼ばれていただろうと思われる訓読みで読んでみるとどう読めるでしょうか?

真実は仮説より奇なり!謎解きがますます楽しくなります。           
         以上
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# by hon-hotsuma | 2014-03-03 19:40 | Comments(0)

ホツマツタヱ解読

ホツマ・エッセイ 天照神                   ジョンレノ・ホツマ



おしで文字という古代文字で記されたホツマツタヱは、公には、まだ無視され、拒否され続けている状況のようですが、何年か何十年か先には、いずれ認めてもらえる日が来るであろうと思っています。

歴史学者の方々が、冒頭からホツマツタヱを認めるわけにいかないのが天照神の性別の違いについてだと思います。
ずぅーと、気になっていたことの一つに、歴史で習ったように古事記・日本書紀には天照神が女神として奉られているのが、世間や歴史関係者の常識になっています。しかし、ホツマツタヱでは、れっきとした男神として誕生しています。

よく、歴史は時の権力者の都合で書き換えられるとか、歴史とは勝者の歴史であり敗者の歴史は表には出てこないということを耳にしたことがあります。

なぜ、違いがあるのか、年代的にはホツマツタヱの方が古いため、後からの方で書き換えられたと考えられます。なぜ、書き換えなければならなかったのか?については、日本書紀・古事記が編纂された目的とその時代の背景を見てみると、明らかになってきます。

日本書紀・古事記の編纂された意図を考えると、当時大国であった唐・大陸に日本の存在を認めてもらうためには、当時の公用語であった漢字で書かれた日本を紹介する国書が必要であったと考えられます。
遣唐使に日本書紀を持参したと、どなたかの文献資料で知りました。日本を文明国として、認めてもらうための日本を紹介するものの、その大本になったのがホツマツタヱです。しかし、ホツマツタヱにはあまりにもありのまま書かれていたので、当時中国で儒教が浸透しており、儒教の教えから見て、野蛮人のすることと思われる内容は排除せざるを得なかった経緯があると考えられます。

身内同士の殺し合いとか、近親結婚などの記載は削除せざるを得なかったと思われます。
その結果、文脈が合わずになったりするため、いくつかの細工が必要になったことが容易に推測できます。
一夫多妻について、12お妃を持つこと自体、儒教の教えでは、認められているのかどうか知りませんが、天照神は12名のお妃を持たされていました。
問題点の一つは天照神のいとこ婚です。

最初に生んだ子のお妃はイサナギの兄弟のクラキネの娘マスヒメモチコで、いとこになります。次に生んだ三つ子のお妃はこのマスヒメモチコの妹になるコマスヒメハヤコで、やはり、いとこです。
さらに、この三つ子はソサノオとの浮気の子でもあるかも知れないとあります。

二つ目は、最初から、天照神を女神にするのが目的ではなく、近親婚の箇所を省いても不自然にならないようにと、イサナギ・イサナミの最初に生まれたヒルコ姫・後のワカ姫を都合よく天照神に置き換えることができたからです。

天照神の姉であるヒルコ姫は後に厄もとれ、ワカ姫となります。アチヒコ(オモイカネ)と結婚されてからは、下照姫と名を変えて、自分は引き下がり天照神を名実ともに長男に押し上げた経緯があります。
よって、姉であるワカ姫は妹の立場に退きます。天照神は姉の立場にすり替わり、最初から女神であったということにすり替わってしまいました。

話をややこしくしていることは、最初にワカ姫が生まれたとき、両親とも厄年であったため、川へ流した(儀式ではあったにせよ)とあります。その次に生まれてきた子は流産であったため、川へ流したとあります。その後、苦難の末、待望の日嗣の皇子であるワカヒト・後の天照神が生まれます。
最初のヒルコ姫が生まれたところだけ残して、途中を削除してしまえば、女神の誕生として話がつながります。

天照神が女神になったことで、天照神のいとこであったお妃が引き起こした身内同士の醜い争いなどに直接触れることもなしに、儒教の教えから見ても安泰に編纂できる結果となったわけです。

小生は日本書紀・古事記に精通しているわけでもなく、ホツマツタヱも全て解読しているわけでもないので、今後新たな発見があれば追加訂正させていただくことになります。

なお、伊勢神宮の鰹木の所の千木の説明(36綾)があり、そこの箇所(下記)だけ見ると、天照神が女神と感違がいされそうな記述がありますが、詳細は別の機会に譲りたく。

うちみやは きみははのこを めぐるのりかな
内宮は君(天照大神)が、母が子供を慈しむような恵む教えです。
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# by hon-hotsuma | 2014-03-03 19:33 | Comments(0)

吉野ヶ里

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吉野ヶ里遺跡の古代の国名と国神がホツマツタヱで明らかになりました 
ジョンレノ・ホツマ

吉野ヶ里遺跡の場所についての記述が、古代の歴史書であるホツマツタヱの中に、見つけましたので紹介させていただきます。

ホツマツタヱは、「おしで文字」と言う古代文字でしるされており、古事記・日本書紀が編纂された時期より古く、紀元241年ごろに編纂筆録されたものです。
そのホツマツタヱの後半(38綾・章)に、「おしろわけ」景行天皇が九州の熊襲征伐に御幸された記述があります。
最初は、何度読んでも、吉野ヶ里遺跡に関連する国が見当たりませんでした。

ホツマツタヱの記述では「おしろわけ」(景行天皇)が御幸されたのは、即位12年目、「ひしろ」(日代)の暦十二年です。神武天皇の時の暦のあすず暦では800年に出発されています。現在の暦との整合性ははっきりしませんが、いずれにしろ、紀元100年~200年頃と考えられています。
 宇佐から太平洋側を南下して、途中、高屋(宮崎県)というところに6年間滞在した後、帰りは、有明海の方を経由して北に向かわれています。ほぼ、九州全土を一周されています。

 吉野ヶ里遺跡のあった当時の国は、景行天皇の御幸された年代には、既に消滅していたのか、あるいは、もっと以降になって勃興したため、この景行天皇の御幸の時になんら接点がなかったのかとも思っていました。古代においては、かなり大きな国であったと思われましたし、景行天皇の御幸の行程に一言も出てこないはずはないと踏んでいました。

 御幸の行程から判断して、唯一該当すると考えていた個所の「おしで文字:古代文字」を「ひらがな」訳で書き直してみると以下のようになりました。
( )の数字は「ホツマツタヱ 和仁估安聰釋述: 日本翻訳センター発行」の(綾-頁)です。

 やつめをこえて(38-71) 「や」は数字の8を表す文字です
まえやまの あわみさきみて(38-72)
きみいわく たゝみうるわし
かみありや みぬさるをうみ(38-72)「を」は特別な意味の「を」です
もふさくは やつめひめかみ 「や」は数字の8、「ひ」は「人」を表す文字です
みねにあり(38-73)

 私のホツマツタヱ勉強会の師である高畠精二先生のHPの訳を参考に、今までに解読されていた内容は以下のようになります。

 「八女県(やつめ)を越えて、まえやまのあわみさきを見て、君(景行天皇)は、畳の目ように山の峰が重さなりあっている所だ。うるわしい国神ありやとお聞きになりました。
 このとき、「みぬさるおうみ」(水沼県猿大海・福岡県三瀦(みずま)郡大川市)が申し上げるには、「やつめ姫神」が此処を治めています。山中に住んでおられます。」

 この内容を私なりに掘り下げてみると以下のようになります。

「やつめをこえて」の「やつめ」(八女)は現在の八女(やめ)に残っていると考えます。
これは、後世に漢字が渡来し、「やつめ」という言葉に「八女」という漢字を当てはめ、時代と共に音読みされ、現在のように「やめ」と呼ばれるようになったものと思われます。

次に「まえやまの あわみさきみて」の前山は普賢岳の前にある眉山の事と考えます。
 これは、「街道の日本史53 佐賀・島原と長崎街道:吉川弘文館発行」の中に、雲仙普賢岳の噴火の記載が載っていました。そこには、寛政四年の大噴火で溶岩流の流出で眉山(まゆやま・前山とも)の東半分が大崩壊したとの記録がありました。
 多分、この眉山のことを見ながら通過されたと思います。当時と現在では山のかたちも違っていたと思います。

 その次の、「あわみさき」について、特定できませんが、弥生時代、海岸線は今より奥まっていて(海抜が高かった)、現在の吉野ヶ里遺跡付近も海岸線に近かったと考えられます。よって、吉野ヶ里遺跡の近辺に「あわみさき」という地名があったのかもしれません。

 「八女を越えて」とあるので、八女もまた当時海岸に近かったことを考えると、八女付近から、パノラマ状に有明海が目の前に広がり、対岸には、左から順番に眉山(前山)、雲仙岳、多良岳、経ヶ岳、八幡岳、天山、背振山(吉野ヶ里)と山の峰が重なり合って見えたのではないかと推定します。

最後の「やつめひめかみ みねにあり」ですが、「地図でみる西日本の古代: 平凡社 2009年5月発行」 に記載されている参考資料の古代「延喜式」の郡名・郡界一覧④の九州地方の地図に、景行天皇が御幸された当時の国の名前がそのまま残っていることを見つけました。
 そして、どこかにヒントが隠されていないかと注意してみると吉野ヶ里遺跡の付近は、古代の郡名が「三根」(みね)と、はっきりと表示されていました。

 すなわち、「やつめひめかみ みねにあり」の「みね」は、峰や山の中に住んでいたということではなく、「三根」という地名を示していたことがわかりました。

 現在でも、三根東小学校、三根西小学校、や三根中学、町役場三根庁舎などの「三根」という名前が残っていることがこれらの事実を裏付けているようです。


よって、この私の推論を認めていただければ、現在の吉野ヶ里は「やつめ姫神」が治めていた「八女国(やつめ:やめ)」であったことになりますし、吉野ヶ里の国は女王国であったことも同時に確認できたことになります。

 更に、「みぬさるをうみ」の話した内容から、この「やつめ姫神」は、吉野ヶ里という一部分だけでなく、島原半島までの広範囲を治めていたとも受け取れます。
そして、現在の「八女」という地名が、この地を治めていた当時の女王の名前であったことに納得できます。

 たった、12文字の「やつめひめかみ みねにあり」だけで、前後にそれ以上の詳細には触れていないことから、この女王と会うこともせずに素通りしたことになります。あるいは、避けて通ったとのかも知れません。

それまでの訪問先では御饗などの歓迎を受けていたことを考え合わすと、当時のヤマトの中央の権力が、この「やつめ姫神」の勢力範囲には、及んでいなかったこともわかり、静かに大陸から押し寄せてきていた力関係が行間からにじみ出ているようです。

その結果、景行天皇が帰国されてからホツマツタヱを編纂して後世に残す作業に至ったのも、近い将来、大陸からの力を、もはや食い止められなくなると覚悟していたのではないかと考えます。

 参考までに、この「やつめひめかみ みねにあり」の部分を「三書比較」により、古事記、日本書紀を参照してみました。

古事記にはこの部分の記載がありませんでした。

日本書紀には以下のように記されていました。

「有女神。名曰八女津媛。常居山中」
「まします、ひめかみ。なをいうやめつひめと。つねにまします、やまのなかに。」
とあり、「みねにあり」を「山の中」と漢訳されたからだと思われます。
 
 
以上
参考文献
「ホツマツタヱ 和仁估安聰釋述: 日本翻訳センター発行」
「ホツマツタヱ 小笠原長弘筆録: 日本翻訳センター発行」
「街道の日本史53 佐賀・島原と長崎街道: 吉川弘文館発行」
「地図でみる西日本の古代: 平凡社 2009年5月発行」
「定本ホツマツタヱ -日本書紀・古事記との対比 三書比較 松本善之助監修 池田満著: 展望社発行」 
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# by hon-hotsuma | 2014-01-09 19:26 | Comments(0)

「おのころ」の意味

「ホツマエッセイ 」                        ジョンレノ・ホツマ(2013/9/11追記)


「おのころしま」の意味をホツマツタヱより

ホツマツタヱ18綾の表題は「おのころ」と「まじなう」の綾(章)となっています。

「いさなぎ」・「いさなみ」が浮橋の上から「とほこ」で探り、滴り落ちた泥が固まってできた島のことを「おのころ島」と言い、日本の始まりだと言う認識でした。

「おのころ」に関して知らなかった内容があちこちに点在しており、でも、何を言っているのか理解できず、悪縁苦闘の末、多分こういうことを言っているのだろうと、状況が浮かび上がってくるに至りました。忘れないうちに書き留めておきたくなりました。

ヒントがあちこちに隠されているようで、まさに謎解きのような感じでした。

この「おのころ」という言葉を、各文字の持つ意味について以下のように推測してみました。

1.「お」

「おのころ」の「お」は、音の「お」です。「こえのおは こわにおさまる をのおして」とあり、
音(声)の緒(行き着くところ)は「こわ」(大地・固い地)に収まるとあります。

「を」の「おして」とは、野風に乗って駆け抜ける馬の「くつはみ」の音が「コオコオ」というからと説明しています。地面が混じる音(土砂崩れ・あるいは馬が地面を蹴りつける音)が「ホオコホオ」で、雷の音は「ホオロホオロ」いずれも「お」という音(文字)が含まれています。

一方「おして・おしで」は神社の注連縄に垂れ下っている紙垂(しで)に通じる言葉と考えられます。

2.「の」

「おのころ」の「の」は、「ふむあとの のにひとうみて のるはのて」・「踏む後の 野(の)に人生みて 乗(の)るはのて」の「の」です。

馬が野を踏み均した後には、野は開拓され人口増加できる環境ができたという意味があり、「のる」とは、大地の上で勢いに乗る、うまく流れ(風や潮流)に乗るといった意味と捉えました。

「のて」=「の」の「(おし)て」と思われます。「の」という手・手合で、乗るという意味に通じます。


3.「こ」

「おのころ」の「こ」は、本文が「ねわによろこぶ ねわはこて」と、あり、「ねわによろこぶ」の「こ」だと言っていると捉えました。

「子供」の「こ」と解釈しましたが、豊かな大地が育んだ作物が生まれる土壌の意味と思われます。

自分なりに解読すると、「ねわ」とは、「ね」が、(根・根底・寝・練るなどの意味)、「わ」は(地・大地・地面・地中)という意味合いより、豊かな土壌・豊富な資源が生まれることを子供の誕生に例えて喜(よろこ)ぶこといっていると思います。

「よろこぶ」(喜ぶ)には子供を産むという解釈もあり、よろ(万)の子の恵みという意味合いもあるように思えます。

「こて」=「こ」の「(おし)て」の略字と思います。

この箇所だけ特殊な文字「こ」になっています。
文字の中にドットが二つ付いています。収穫されたお米を「ぞろ」と言っていますがこの「ぞろ」にもドットが追加されています。

豊かで穏やかな地に対して子(童・子供・豊穣)を奉納することの意味も隠されていると考えられます。深い意味がありそうです。

4.「ろ」

最後に「おのころ」の「ろ」ですが、「ひとなるみちは とをもちひ そのもとはろと」・「人なる道は「と」を用い、その「おして」の元になっているのは「ろ」です」とあります。

ホツマツタヱのこの古代の「おして」文字の形を思い浮かべれば一目瞭然ですが、「と」と「ろ」は上下対称の形になっています。文字の形から読めるのは、「と」は両手を天に向かって開き(Yの字)、天の恵みに感謝している姿に見えます。「ろ」は両足でがっちりと大地を踏ん張っている姿(Yを逆さま)に見えます。
人間が人としての正しい道を目指す姿を意味しているようです。

でも、裏に隠されている行間から見えてくるのは、「と」と「ろ」が逆さまであることより、天地がひっくり返ったような大変な様を例えば、火山の噴火など言いたいのではないでしょうか。

以上、この4文字「お・の・こ・ろ」が「わ」(天地の地)と合体して、国を治めると結んでいます。


「おのころ」の各文字を、わかりやすくローマ字で書いてみれば、「o,no,ko,ro」と、各母音が「o」になっています。「o」という母音は古代文字(おしで文字)では、□で表され、埴(土、泥、大地など)の神を意味しています。

ここまでが、今までの認識していた内容を詳細に確認したわけですが、最後の10行ほどに謎めいていたものが自分なりに明らかになり驚きました。

何回か読み直しているうちに、ヤマトタケのエミシ征伐に一緒だった「おとたちばな姫」が嵐を鎮めるために龍の身代わりとして入水してしまう場面を思い出しました。
嵐や、火山噴火などの自然の猛威を鎮めるため、つまり、自然の神の怒りを鎮めるために神に供えるという、生贄の概念がすでにあったと理解したからです。

全て完璧に解読できたわけではありませんが、このように読めてきました。

表題には「おのころ」と「まじなう」の綾とあったものの「まじなう」の内容が結びつく個所が見当たらないと疑問を抱いた瞬間、この最後の10行に、さり気なく触れているのだと気が付きました。

本来言ってはいけないこと・公言を差し控える内容であることを、こっそり事実だけ伝えておく必要があると考えられたのではないでしょうか。

わざとこのまて「18-23」(18-12)
おのころの もしもうごかば 
よなおりを をのこをのこと
いのるべし

禍(わざわい)と「このまて」(大地の魔の手)でもし、「おのころ」(大地)が動くようなこと(大地が揺れ動く天地異変・火山噴火・地震など)があれば、世の直り(神の怒りを鎮める)するために「ヲノコ・ヲノコ」と祈りなさい。

 わらんべいねて「18-23」(18-12)
おそわれば をのこをのこと「18-24」(18-13) 
たなこなて はたゝかみなり 
やまさらば ほおこほさわぞ

天地異変に襲われたときには、童(わらんべ)を居寝て(寝かせて)、「ヲノコ・ヲノコ」と神の掌(たなごころ・手のひら)で撫でられるよう(童を神に差し出すこと、つまり人身御供)にすれば、荒れた神の怒りを鎮められます。という意味が含まれているように思えます。

神が怒ると、「はたた神」(激しい雷)が鳴り、落雷し、火山が噴火して、山が崩れ落ち、「ホオコホ」と怒涛の如く、沢(谷)が出現します。

なお、馬が音を立てて地面を蹴りつけていくのも「ホオコホオ」と表現しています。

「いねて」を居寝て(寝かせて)と解釈いましたが、「鋳練て」・「稲て」という意味合いがどこかに隠されているような気もします。

ひなおりと いのりとゝむる「18-24」(18-13)
をの*こ*ろと わらへのひたひ「18-25」
かにおせは おそわれぬのり
おのころあやぞ

「ひなおり」と、祈って「おのころ」を留めるために、童の額(顔面の上部)に「かにおせば」赤い印(丹・に)を押し付けて、神に捧げれば、天地異変から襲われない典(のり)になります。「か」は善・明るいという意味から太陽の赤いという意味に捉えました。これが、「おのころの綾です。」で終わっています。
 
今でも、インド・ヒンドゥー世界では、ビンディといって赤いシールを付けているのを見かけます。元々は悪霊から守護するためであったようです。共通点を感じます。
この「ひなおり」という言葉が「呪い・まじなう」を意味していると理解しました。

ここの記述より、古代日本でも天地異変のときには、童を生贄にしていたと解釈しました。
まさか、人身御供(ひとみごくう)・生贄(いけにえ)が実際古代において行われていたとは、にわかに信じがたかったのですが、すでに日本古来にあったと、先人の研究者の方々がおられることを、知って得心しました。(*1)

さらに、「よなおり」と 「ひなおり」とは、「なおり・おり・直会(なおらい)」の韻を踏んでいるようです。
 

「夜なおり」と「昼なおり」という夜と昼の意味合いもあるように思えます。

「夜なおり」は暗闇の中の雰囲気であり、「昼なおり」は明るくなる期待の意味合いがあるように思えます。暗闇で「おのころ」(人身御供・生贄)の儀式を行っていたのでしょうか。

あちこちに伝わっている夜祭、例えば、大國魂神社 (府中市)の暗闇祭りや秩父の夜祭などのように「よなおり」発祥の根底が引き継がれているように思えます。そうだとしたら、夜祭のあの激しい動きをする動機が隠されていたことに納得がいきます。

「ひなおり」神事として、現在でも阿蘇山での火振り神事・火降り神事として執り行われていることに驚きます。


 「よなおり」の別の解釈として、
「よな」は火山灰を示している。火山の噴火が全ての生活環境を破壊してしまい、早く怒りが治まってほしいという願望も含まれているようです。
 「よな」は胞衣(えな)の意味もある。我々を取り囲む世界(子宮内に例えて)を治めて欲しいとの意味にも通じるようです。

上記の解読は完璧とは言えず、全綾を解読後にはもっと明快な解釈が出てくるのではと思っています。
今はまだ、粗いざるで水を掬っている心境です。いずれにせよ、「まじなふ」は、神の怒り(天地異変)を鎮めるために「おまじない」をしていたことを知りました。

もっとも、私が他の方の解読を知らないだけの井の中の蛙であって、もう既に明快な解釈が出ているのか知れません。

今日(2013/9/11)の読売新聞の文化欄に、
富士山の「沈静命令」伝達か
古代官道の支道跡 河口湖近くに
というタイトルで記事が出ていました。


平安時代の史書「日本三代実録」によると、富士山の貞観大噴火(864~866)の際、朝廷は莫大な被害をもたらした富士の神・浅間大神に対する陳謝を甲斐国司に命じた。噴火は神の怒りの発動とされ、ささげ物を供え、謝る祭祀で抑えられると考えられていたからだ。何を捧げたかは不明だが、当時の状況が思い浮かぶようです。

以上

(*1)「怪異の民俗学7 異人・生贄 小松和彦編集 河出書房新社版」より。収録著者は柳田国男、肥後和男、宮田登、西郷信綱、若尾五雄、赤坂憲雄、三浦佑之、中村生雄氏等

「18-数字」は和仁估安聰釋術ホツマツタヱ
(18-数字)は小笠原長弘筆録覆刻版ホツマツタヱ の頁を示す。
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# by hon-hotsuma | 2013-09-09 20:35 | Comments(0)

縄文土器の力強さ 

縄文土器の力強さ ホツマ・エッセイ            ジョンレノ・ホツマ

一昨年、ホツマツタヱ勉強会のメンバーと「よしなに計らう」の語源の検証に行きました。

 「よしなに計らう」という言葉は、ホツマツタヱの28綾に出てきます。

辞書には、うまい具合になるように、不具合が生じないように、よろしく、などとありますが、もともとの意味は、3つしかないものを、4人にケンカせずに分け与えたことをいっています。

この語源のもとになったのは、天孫ニニキネとコノハナサクヤ姫との間に三つ子が生まれ、お祝いに4人の信濃の県主がお祝いに駆けつけ、そして、赤ん坊の胞衣(へその緒)を譲り受けに来た時の対応から生まれた言葉だと知りました。
 
具体的にどういうことであったかというと、「よしな」、すなわち、お祝いに駆けつけた4人の信濃の県主・埴科県主、波閇科(はべしな)県主、更科(佐良科)県主、妻科県主がケンカしないようにと、埴科県主には、生まれてきた子供の胞衣ではなく、天照大御神の胞衣が恵那山(恵那神社)に祀られているのを守りなさいという指示を与えたのです。

天照大御神は天孫ニニキネのお祖父さんに当たり、天下を君臨してきたわけですから、新たに誕生した子供と比べて格が違い、文句があるわけがありません。埴科県主は喜んで引き受けたものと思われます。

他の3人の県主は天孫ニニキネとコノハナサクヤ姫との間の子供の胞衣を譲り受けました。

その結果、誰一人、不服、不満もなくこの場が収まった名場面であったと思い描きました。

 さて、ここでの記述から、生まれてきた子供の「へその緒」は、今でも大事に保管する風習が残っていますが、この当時(縄文晩期ごろ)から、胞衣(へその緒)には魂が宿っていると信じられていたようです。

父親から母親に受け継がれた魂が子供へと受け継がれて行き子孫へ受け継がれていく魂が宿っている胞衣(へその緒)を大事に壺(胞衣壺)に入れて奉納してきた風習があったことが分かります。


ですから、この胞衣を納める壺は子孫繁栄を願って、力強く装飾が施されていった経緯が理解できます。

縄文土器が、弥生土器に比べて力強く、装飾が施されてきたのかに気が付いた次第です。

特にこの胞衣壺は大事に保管されてきたので原型をとどめたままの出土も多かったものと思われます。日常的に使われてきた器は風化してしまい現存しているのを見つけるのは難しいと思われ、胞衣壺だけが現存しており発見されてきたものと考えられるからです。

以上
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# by hon-hotsuma | 2013-07-28 06:42 | Comments(0)

尖閣諸島

別の調べ物をしているうちに、尖閣諸島についての記述が見つかり驚いています。
これを表に何故、当事者は出さないのか、或いは知らないのか不思議です。

それは久保有政著 日本とユダヤという書籍のなかで 「中国文明との違い」という項目の中に、こういう記述を見つけたからです。

 かっての中国は尖閣諸島は日本の領土と認めていた。1953年1月8日付けの「人民日報」(中国共産党の機関紙)は、琉球に関する記事を載せていて、日本の琉球は7つの諸島から成るとし、その7つの諸島のなかに「尖閣諸島」も含めて書いている。当時の中国政府は、尖閣諸島が日本の領土だとはっきり語っていたのである。
ところが、その尖閣諸島の海域で天然資源が豊富であることがわかると、中国は途端に「尖閣諸島は中国固有の領土」といいはじめた。


この事実を早く表に出すべきと思いました。

以上
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# by hon-hotsuma | 2012-09-24 21:59 | Comments(0)

武蔵の国と東京スカイツリー

東京スカイタワーが今話題になっています。展望台が公開され、武蔵の国を一望できるというロマンがあって素晴らしいことだと思います。しかし、このタワーの高さが、「武蔵の国」の「ムサシ」をとって「634」mに決めたと知った時、何か複雑な気持ちになりました。

 というのは、紀元200年頃編纂出録された「ホツマツタエ」を読んで行くと、その中に「武蔵の国」の語源になった記述が出てきます。しかし、当初は「むさし」ではなく、「みさし」・「みさしのくに」と命名されていたからです。「みさし」が時代と共に風化し訛って「むさし」になり、時代が下がって漢字が渡来し「武蔵」という漢字が当てはめられたと考えられるからです。
武蔵の語源本来は「みさし」ですから、「みさし」だと「334」mになってしまうからです。

その前に、「ホツマツタエ」なるものが、世間に広く認められておらず、日本には古事記・日本書紀の編纂以前には文字が存在せず、そんな書物は存在しないという認識の方が大半だと思います。
ですから、世間のほとんどの方も「ホツマツタエ」そのものを御存じないし、こんな話をいきなり言われても「ばか」か「変人」と思われ、とても受け入れられないと思ったからです。
もちろん、スカイタワーの高さを武蔵のゴロ合わせにされた方も、こんな事実があったこととは夢にも思っていなかったと思われます。

  皮肉にも現在の「むさし」の「む」が「みさし」の「み」であったわけですが、一方で、相模という地名について現在は「さがみ」ですが、当初は「さがむ」と「み」ではなく、「む」と逆に呼ばれていたことに不思議な感じを受けます。その土地に住んでいた方々の方言だったのでしょうか。

 さて、「ホツマツタエ」の中にある「みさし」の国と言われるようになった語源ですが、日武尊命(やまとたけ)が、蝦夷(えみし)東征で、駒馬の「鐙(あぶみ)」の片方を落としてしまいます。それを、たまたま拾い上げた「とらかしわ」という武将が届けたところに「武蔵」の語源となった記述が出てきます。
 「とらかしわ」が、この拾い上げた鐙(あぶみ)を榊に刺して「やまとたけ」に献上しました。刺し上げた(差し上げた)わけですが、謙譲語の「み」を付けて「みさし」から「みさしくに」という国名が、このとき初めて名付けられたことが分かります。
 「差し上げる」という言葉も同時にこの時の語源であったことが分かります。
 なお、「とらかしわ」という武将は深大寺の近くの調布市布田の虎柏(こはく)神社に残っています。この虎柏神社の前の通り道の名前が佐須(さす)街道、この付近が佐須(さす)町というのもこれらの事象を裏付けているように思えます。

懲りずに、焦らず、背伸びせず、地道に「ホツマツタエ」に書かれていることを、自分なりに解読し、紹介し続けて行こうと改めて思った次第です。
以下、「ホツマツタエ」(小笠原写本)と「ひらがな訳」の記載部分です。
もし、ご興味のある方は、「ホツマツタエ」 の解読中のブログを覗いてみていただけたらと思います。
http://hotsumatsutae.blog62.fc2.com/e0191707_13382783.jpg

ジョンレノ・ホツマ

・・・・・・・・・・・・・ さかむのたちに
いりませば のにかたあぶみ
とらがしわ ひろいかんがえ
あぶみさし いまたてまつる
たまかざり ほめてたまわる
むらのなも たまがわあぶみ
みさしくに さがむのくにと
もとひこに なつけたまわる
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# by hon-hotsuma | 2012-04-18 13:38 | Comments(0)

ほつま・エッセイ  気象神社 

                JR高円寺駅の近くに氷川神社があります。脇に小さな摂社の気象神社という神社があることを最近になって知りました。

名前からしてそれほど古くはないと思い、何気なく由緒書きを見たら、昭和19(1944)年4月10日に陸軍気象部の構内に造営され、戦後の神道指令で除去されるはずが、連合軍宗教調査局の調査漏れで残ったとありました。気象神社なるものは、日本で一つだけだそうです。

更に、驚いたのは、御祭神が思兼(おもいかね)命と知ったからです。なぜだか、微笑ましく思えました。
というのは、この「おもいかね」というユニークな名前の謂われについて、「ほつまつたえ」に記述があったのを思い出したからです。

「あちひこ」なる人物が、天照神のお姉さんの「わか姫」の許へ勅使として来た時、「わか姫」は一目見て恋焦がれてしまいました。「わか姫」は胸の思いを歌冊(うたみ)に染めて(書いて)思い余って(思い兼ねて)、この恋文(歌)を差し出してしまいます。
「あちひこ」はつい受け取ってしまい、突然の告白にどう返事をして良いか窮してしまいます。

きしいこそ つまをみきわに ことのねの とこにわきみを まつそこいしき

この恋文を漢字まじりにすると、
紀州こそ 妻を身際に 琴の音の 床に吾(我)君を 待つぞ恋しき
(紀州にいらしてください。私は貴方の妻となって、いつも、御そばで琴を奏でて差し上げましょう。寝床を敷いて貴方が来られるのを恋しい想いでお待ちしています。)

この恋文は、上から読んでも下から読んでも同じで、回文(廻り歌)になっています。受けたからには返事(かえこと)が出来ない、受けざるを得ない歌であったのです。

しいこそつまをみきわにことの
き               ね↓
 しいこそつまをみきわにことの   
←←←←← ←←←←←←← 

 このことがあって、二人は夫婦になり、「あちひこ」は「おもいかね」という名前になり、天照神のお姉さんであった「わか姫」は「したてる姫」と名乗り、妹の立場に引き下がった経緯があったからです。


では、なぜこの「おもいかね」がここの御祭神になったのか、不思議だったのですが、どうやら、天照大神が天の岩屋戸に隠れられて、世の中が暗闇(日食)になったときの出来ごとに関連していたようです。「おもいかね」が、松明を焚いて暗闇を明るくしたように、空をいつも明るくして欲しいという願いであったと思われます。
また、氷川神社の御祭神である「そさのお」も、この「おもいかね」も、関東には全く関係なく、同じ出雲に関係していたからかも知れません。 
でも、この神社を設立された方は、この「おもいかね」という名前の由来は御存じでは無かっただろうなと思った次第です。 以上

ジョンレノ・ホツマ 2012/1/23
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# by hon-hotsuma | 2012-01-23 21:41 | Comments(0)

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