ほつまつたえ
ホツマツタヱの記述を検証するため、ホツマツタヱ勉強会から総勢28名の参加者の方々と関西方面に行ってきました。
世間では公に認められていないホツマツタヱですが、現地に行って記述の痕跡を確認してきました。そして、訪問先の痕跡や状況から、参加された皆さん、それぞれの検証先を
訪れたことに満足され本当に良かったと思いました。
今回の検証先は、ホツマツタヱの記述の中でも最重要と思われる、天照神と、天照神の祖父であり先生であった豊受神に関連している方々が祭られている所を選びました。
限られた時間で、此処も行きたい、あそこも行きたいで絞りに絞ってようやくたどり着いたのがこの地図の経路になりました。
最初の訪問先の廣田神社ではホツマツタヱの記述にある
「いわくす舟に 乗せ捨つる 翁ひろたと にしとのに ひたせばのちに・・・」
が語源になっていると考えられます。
両親(いさなぎ・いさなみ)の最初の子は厄年に生まれた「ヒルコ姫」を、儀式で川に流し、住吉の神が拾い上げ「ひろた」と育て上げた経緯があります。
厄が取れたのちは「ワカ姫」となり今の和歌山県の語源にもなっていると考えられます。
近くにある西宮神社とも関連があるが、今回は時間の関係で省きました。
「にしのと」とは西宮神社で現在はえびす様で有名になっていますが、住吉の神が住まわれていた。
今回の旅行のガイド役をお願いした現地に詳しい大江久幸氏の解説によると昔は六甲山もこの廣田神社の範囲であったようです。
二番目の訪問先の越木岩神社は、ワカ姫が勅使のアチヒコ(後のオモイカネ)に渡して結婚に至った歌の最後の「こいしき」から来ていることを解読された方がおられ分かったからです。
「きしいこそ つまをみきわに ことのねの とこにわきみを まつそこいしき」
という回り歌になっています。この回り歌とは、上から読んでも下から読んでも同じなため、この歌を受け取った者は、この歌に返事(返歌)が出来ず受け入れざるを得ない歌の事です。
和歌山のタマツ宮に居られたワカ姫(天照神のお姉さん)が勅使として来た「あちひこ」を見て、一目ぼれしてこの回り歌にした恋文を渡します。
「紀州にいらしてください。私は貴方の妻となって、いつも、おそばで琴を奏でて差し上げましょう。布団を敷いて貴方が来られるのを恋しい想いでお待ちしています。
受け取った「あちひこ」は返事に「思いかね」て後に「オモイカネ」と名が替わり、晴れて結婚され、ワカ姫は下照姫と名を変え天照神の妹の立場に替わります。
この越木岩神社の地名は西宮市甑(こしき)岩町で廣田神社とも近いが、甑岩と言わる古代の磐座がそびえ立って鎮座している光景を目前にして感無量でした。
しかし、近くには住宅街が押し寄せ、磐座を残したままという条件で学校に売却したが学校閉鎖でマンション建築現場に置き換わってしまい、磐座が取り壊されようとなっており、残すよう署名活動されている現状を知りました。
初日の最大の検証先である六甲比命神社は巨大な磐座(いわくら)がご神体の神社です。六甲比命神社はほぼ六甲山の尾根上にあり、ここを起点とした夏至冬至ラインの南西には三国岩、天照神の磐座が鎮座し、東北へは主にセオリツ姫と関連する重要な聖地がずらりと並びます。
ムカツ峰が六甲山の旧名だったのですから、現在は六甲比命・六甲比女と表記されてロッコウヒメと呼ばれているものの、かっては向か津比女と記され、ムカツヒメと呼ばれていたに違いありません。この磐座が六甲山を象徴する最も重要な聖地であることを物語っています。この項、大江氏からの記述を転用。
六甲山に大型バスの通れる道も出来ていますが、山の中の険しい道のりを大変な思いをしてたどり着きましたが、それだけに感無量になりました。
今回の検証旅行は東京から新幹線で新神戸集合、そこから貸切バスで1泊2日の旅行でしたが、二日目の検証先は次回報告させていただきます。
#
by hon-hotsuma
| 2015-11-20 10:13
日本人が知らない漁業の大問題
佐野雅昭著 新潮社 2015年3月発行
著者は水産庁勤務を経て、現在鹿児島大学水産学部教授で専門は水産経済学です。
帯表紙に、マグロ?ウナギ?そんなの「危機」じゃない!
「魚食崩壊」の深刻な実態 とあり、帯裏には、日本の漁業、卸売業者がこのまま劣化していけば、未来の消費者は「食」の豊かさも、日本が誇る「食」の文化も失ってしまうでしょう。資源の管理も大切ですが、魚がいなくなるより前に、魚を食べる人がいなくなってしまいそうです。冗談ではなく、現実的な文化の危機だと思います。と書いています。
魚好きの小生にとって、毎日当たり前に食べている魚が、スーパーの魚売り場を見ても、種類が少なく単調になってきており、店によっては、見ただけで鮮度が違い、買う気も起らないことも気になっていました。普段、魚に関しての情報は断片的でしかなく、どういう内容なのかと取り上げてみました。
以下、気になった項目を列記して見ます。
2013年度水産白書によれば、沿岸漁業家の漁労所得は2012年には約204万円まで低下、生活保護レベルを下回るレベルとのことです。
実質的には、副業や年金などで500万程度にはなると推測している。
若者が水産業には行かないので、後継者不足が深刻になっている。漁業の就業者は、24万人(2002年)→17万人(2012年)と減少、更に60歳以上が5割超えている現状である。
漁業への新規就業者数は全国全て合わせて2000人に達しない。このままでは将来日本から漁業が消滅する覚悟が必要である。
日本から漁業者がいなくなって近海のサバやアジ、サンマなどが食べられなくなるとしたら冷凍輸入魚ばかり、魚文化の崩壊につながると著者は憂いています。
本質を見失った水産基本計画
消費者は鮮度を重視、美味しいものを食べたい。この要求を正面から取り上げず、加工化や衛生管理、規制緩和ばかりに目を向けている。水産物は手間のかかる多様で複雑なもの画一にはいかない。
問題になっている背景として、漁業権の理念が薄らいでいる。
無秩序な輸出拡大・大手水産会社が買い占めて輸出、逆に国内では原料不足から輸入品にシフト。儲からなくなれば廃業では、食料安全保障の観点から自給率を引き下げる輸出拡大は考え物。
企業を後押しする委員会は、食料の自給率を維持する考えはなく、EPA(経済連携協定)やTPPを進めて海外から安い食料を輸入すれば良いと主張している。
漁協のシステム(自主的管理機構)にもっと目を見開く必要あり。
それぞれの地域ごとに持続的な資源管理が全国的に実現されてきた。世界中から注目を集めているが、多くの日本人は知らない。
日本の魚は安全、生鮮水産物流通のモラルと流儀
原則的にその日のうちに漁獲されたそこにあるだけの魚を欲しい人が競い合いながら買う。供給量や価格を人間がコントロール出来ないものが前提。
流通業者の鮮度や品質を正しく評価する能力、すなわち「目利き」の力。専門的にならざるを得ない。
日本人には当たり前のことも、他国からは不思議。
卸売市場流通では日常的にサンプル検査が行われ、衛生的に基準を満たないものは排除、またどの業種・業態においても専門知識と的確なハンドリングのノウハウ、高いモラルとプライドを持った魚の専門家が水産物を扱い、刺身で食べることを当然の前提とした迅速な流通と適切な品温管理を行っている。彼らはまた、豊富な知識と柔軟な技能によってどんな魚でも的確に扱える。
世界中でここまで柔軟で高度な流通システムは他にない。再認識して大切にすべき。
魚食文化に逆行するファストフィッシュ
総務省の調査では、この10年間で生鮮魚介類の消費量は60代以上では減少していないが、50代以下では3割近く減少、20代世帯では4全体平均の半分程度で60代以上の高齢者世帯の4分の1以下。魚離れは外人並。
農林水産省の食料需給表で、2012年国民一人当たりの動物性たんぱく質は、鶏卵5.6g、牛乳・乳製品7.8g、畜肉15.1g、魚介類15,5g。食用水産物の自給率約6割、日本の畜産品(牛乳・卵含む)の自給率は約83%、その飼料の8割以上が輸入で実質的な自給率は16%程度。
養殖は、本来高級魚であったものが低価格を余儀なくされ大衆化され生産者の価格ジレンマが生じ、ブランド戦略も、一尾一尾の目利きが必要な水産物を、現実を無視して利己的なブランドを作ろうとしている。目先の利益が先走りしているように思える。
鮮度の良い天然の魚を適切な価格で食べたいと改めて思いました。
以上
ジョンレノ・ホツマ
佐野雅昭著 新潮社 2015年3月発行
著者は水産庁勤務を経て、現在鹿児島大学水産学部教授で専門は水産経済学です。
帯表紙に、マグロ?ウナギ?そんなの「危機」じゃない!
「魚食崩壊」の深刻な実態 とあり、帯裏には、日本の漁業、卸売業者がこのまま劣化していけば、未来の消費者は「食」の豊かさも、日本が誇る「食」の文化も失ってしまうでしょう。資源の管理も大切ですが、魚がいなくなるより前に、魚を食べる人がいなくなってしまいそうです。冗談ではなく、現実的な文化の危機だと思います。と書いています。
魚好きの小生にとって、毎日当たり前に食べている魚が、スーパーの魚売り場を見ても、種類が少なく単調になってきており、店によっては、見ただけで鮮度が違い、買う気も起らないことも気になっていました。普段、魚に関しての情報は断片的でしかなく、どういう内容なのかと取り上げてみました。
以下、気になった項目を列記して見ます。
2013年度水産白書によれば、沿岸漁業家の漁労所得は2012年には約204万円まで低下、生活保護レベルを下回るレベルとのことです。
実質的には、副業や年金などで500万程度にはなると推測している。
若者が水産業には行かないので、後継者不足が深刻になっている。漁業の就業者は、24万人(2002年)→17万人(2012年)と減少、更に60歳以上が5割超えている現状である。
漁業への新規就業者数は全国全て合わせて2000人に達しない。このままでは将来日本から漁業が消滅する覚悟が必要である。
日本から漁業者がいなくなって近海のサバやアジ、サンマなどが食べられなくなるとしたら冷凍輸入魚ばかり、魚文化の崩壊につながると著者は憂いています。
本質を見失った水産基本計画
消費者は鮮度を重視、美味しいものを食べたい。この要求を正面から取り上げず、加工化や衛生管理、規制緩和ばかりに目を向けている。水産物は手間のかかる多様で複雑なもの画一にはいかない。
問題になっている背景として、漁業権の理念が薄らいでいる。
無秩序な輸出拡大・大手水産会社が買い占めて輸出、逆に国内では原料不足から輸入品にシフト。儲からなくなれば廃業では、食料安全保障の観点から自給率を引き下げる輸出拡大は考え物。
企業を後押しする委員会は、食料の自給率を維持する考えはなく、EPA(経済連携協定)やTPPを進めて海外から安い食料を輸入すれば良いと主張している。
漁協のシステム(自主的管理機構)にもっと目を見開く必要あり。
それぞれの地域ごとに持続的な資源管理が全国的に実現されてきた。世界中から注目を集めているが、多くの日本人は知らない。
日本の魚は安全、生鮮水産物流通のモラルと流儀
原則的にその日のうちに漁獲されたそこにあるだけの魚を欲しい人が競い合いながら買う。供給量や価格を人間がコントロール出来ないものが前提。
流通業者の鮮度や品質を正しく評価する能力、すなわち「目利き」の力。専門的にならざるを得ない。
日本人には当たり前のことも、他国からは不思議。
卸売市場流通では日常的にサンプル検査が行われ、衛生的に基準を満たないものは排除、またどの業種・業態においても専門知識と的確なハンドリングのノウハウ、高いモラルとプライドを持った魚の専門家が水産物を扱い、刺身で食べることを当然の前提とした迅速な流通と適切な品温管理を行っている。彼らはまた、豊富な知識と柔軟な技能によってどんな魚でも的確に扱える。
世界中でここまで柔軟で高度な流通システムは他にない。再認識して大切にすべき。
魚食文化に逆行するファストフィッシュ
総務省の調査では、この10年間で生鮮魚介類の消費量は60代以上では減少していないが、50代以下では3割近く減少、20代世帯では4全体平均の半分程度で60代以上の高齢者世帯の4分の1以下。魚離れは外人並。
農林水産省の食料需給表で、2012年国民一人当たりの動物性たんぱく質は、鶏卵5.6g、牛乳・乳製品7.8g、畜肉15.1g、魚介類15,5g。食用水産物の自給率約6割、日本の畜産品(牛乳・卵含む)の自給率は約83%、その飼料の8割以上が輸入で実質的な自給率は16%程度。
養殖は、本来高級魚であったものが低価格を余儀なくされ大衆化され生産者の価格ジレンマが生じ、ブランド戦略も、一尾一尾の目利きが必要な水産物を、現実を無視して利己的なブランドを作ろうとしている。目先の利益が先走りしているように思える。
鮮度の良い天然の魚を適切な価格で食べたいと改めて思いました。
以上
ジョンレノ・ホツマ
#
by hon-hotsuma
| 2015-07-24 20:48
ホツマ・エッセイ 歌は心を洗う
古代の人は、禊ぎは身体の穢れを落とし、歌は心を洗うと言っていました。
今回、歌の持つ偉力を実感した二つ目のケースとして、取り上げてみました。二人の間が行き詰っても、最後に解決したのが歌だったからです。
ホツマツタヱ26綾からの抜粋になります。
「ヒコホホデミ」と「トヨタマ姫」との話です。今風に言えば、波乱万丈の物語です。
ヒコホホデミは、「天孫ニニキネ」と「このはなさくや姫」との間に三つ子の末っ子として富士山の麓で生まれ、かっては山幸彦とも呼ばれていました。
一方、トヨタマ姫は九州出身で、ハデヅミ(住吉の神の孫)の娘になります。
当時、九州を治めていたヒコホホデミに、瑞穂の国(滋賀県)に居られた父親である天孫ニニキネから、「天つ日嗣」を譲る(天皇の位を引き継ぐ)ので至急戻ってくるよう伝令が入ります。
天孫ニニキネは、「天つ日嗣」を受け継いで別雷神(わけいかつちの神)となられておりましたが、「天つ日嗣」をヒコホホデミに譲ることに決めました。
天孫ニニキネは日嗣を譲ってからは大上君と称せられます。
この伝令が「おしか」(勅使)によって、筑紫(九州)の親王(おきみ)であったヒコホホデミに伝えられます。
九州を治めている32神は、今までお遣いしていたため、別れることを惜しみました。しかし、日嗣が決められた以上32神は「よろとし」(万・歳)と祝いました。
そして、ヒコホホデミは、筑紫(九州)から、淡海(琵琶湖)の瑞穂の宮に向けて御幸することを決めました。
志賀の浦(志賀島・博多湾)から日本海を北津(敦賀)へ舟で戻ることになりますが、その時、お妃であったトヨタマ姫は妊娠しており、臨月間近になっていました。
そこで、ヒコホホデミは一番速い「大ワニ舟」に乗り、先に行って産屋(うぶや)を作っておくことにしました。
「大ワニ舟」に乗ったヒコホホデミは、志賀の浦から北の津(敦賀)に着き、上陸後、「いささわけ」(伊佐々別神社・気比大神)を経由して、滋賀県の「みつほ・瑞穂」の宮にご帰還されました。
「わけいかづち」の天君も、臣たちも共に、ヒコホホデミの無事のご帰還を喜びました。
一方、お妃(トヨタマ姫)は、生まれてくる子供のためにも、揺れが少なく乗り心地の良い「カモ舟」で北の津(敦賀)まで後から追い駈けて行くことにしました。
ヒコホホデミは北の津(敦賀)に到着するやいなや、松原に産屋を作り始めました。しかし、棟(天上部分)がまだ完成する前に妃(トヨタマ姫)を乗せた舟が到着してしまいました。
臨月を迎えていた妃は、完成まで待っていられないので、そのまま産屋に入って皇子を生んでしまいました。
しかし、この妃の乗ったカモ舟は途中の渚で座礁して割れて、皆、海に落とされてしまう事故に遭います。しかし、溺れることなく、姫はお腹の中の子種を守ろうと必死で磯まで泳ぎ着きます。
その後、磯で見つけた釣り船に乗り、美保崎(島根県三保関)でワニ舟を見つけて乗ることが出来ました。そのため予定より早く到着出来ることになりました。
当時は沖合ではなく、渚に近い(海岸線に近い)ところを航行していて座礁して舟が割れてしまったのだと思います。
さて、ここから大問題が生じます。
男は産屋を覗いてはいけないと注意されていました。更に、当時、産後75日間は母体が元通りになるまで性交渉はいけないとされていました。
君(ヒコホホデミ)は、この北津の松原に涼みに来て、産屋の様子が気になったので、覗いて見ると、たまたま隙間が開いており、あられもない妃の姿を間近で見てしまいました。何も着ておらず、腹這いになって寝ていたからです。
見てはいけないものを見てしまい、慌てて開いていた戸を閉めてその場を立ち去りました。しかし、妃はこの物音で眠りが覚め、あられもない姿を見られた恥ずかしさで一杯になり、居ても立ってもいられなくなってしまいました。
恥ずかしさのあまり、もうここには居られないと、生まれたばかりの赤ん坊を抱きかかえ、弟の「たけづみ」と産屋を後にして、遠敷(おにふ・福井県小浜市東小浜)の宮に行き着きました。
この遠敷の宮で、母(トヨタマ姫)は皇子を抱きしめ、眉・目を見つめながら、皇子に向かって、母は恥をさらしてしまい、もうここにいることは出来ないので、国に帰ります。もう二度と貴方にお目にかかることはないでしょう。 と別れの言葉を言い残し、皇子を置いて行きました。
この皇子は後に「カモヒト・ナギサタケ・ウガヤフキアワセズ」の命という長い名前を賜わり、神武天皇のお父さんになられる方です。
皇子を置き去りにした、トヨタマ姫と弟の「たけづみ」は、朽木川(滋賀県高島市朽木村・安曇川の支流)の添って登り、山を越えようやく三日目に「わけつち山」の北側の「みずはめの社」(貴船神社)に着き、休むことが出来ました。
この事態が「みつほ」宮に伝え知らされたため、皆驚き、「ほたかみ」(穂高見・トヨタマ姫と兄弟)に、トヨタマ姫がその場所(貴船神社)から、一歩も動かないよう説得に向かわせました。
穂高見は朽木谷(滋賀県高島市朽木村・安曇川の支流)を西から南へと、山を越えて、トヨタマ姫のいる「みつは」の宮(みつはめ・貴船神社)に行き着きました。
トヨタマ姫に「瑞穂宮」に帰るよう説得しますが、ガンとして聞き入れませんでした。やむなくトヨタマ姫と一緒にいる弟の「たけづみ」に、この場所を動かないようにと言い含めて、一旦、馳せ帰りました。
心を閉ざしたトヨタマ姫の頑なな気持ちを説得するために、というよりも、日嗣の儀(大嘗祭)をとりおこなう大事な時を前に、お妃がいなければ事が進まないからです。正に緊急事態であったからです。
事態を重く見た「瑞穂宮」は、遂に九州に居るトヨタマ姫の父親の「はでつみ」とトヨタマ姫の妹の「おと玉姫」を、一番速度の速いワニ舟で上京させました。
父親と妹は、瀬戸内海を舟で西の宮に着き、そこから「やましろ」(山背国・京都・貴船神社)に到着し、娘のトヨタマ姫に会います。
父親の「はでつみ」は、君のいる「瑞穂宮」に行くよう説得しますが、トヨタマ姫は国へ帰るので上京はいたしませんと頑なに拒否しました。
トヨタマ姫は、父親に私の代わりに妹の「おと玉姫」を君に捧げてくださいと頼みました。やむなく、父親の「はでつみ」と妹の「おと玉姫」は、共に都へ上京して、このことを申し伝えました。
君(ヒコホホデミ)は、この申し出を受け入れて、妹の「おと玉姫」を妃に召上げました。
大上君は、天の日嗣を若宮(ヒコホホデミ)に捧げるため、「シノ宮」(ヒコホホデミが住まわれていた)に、お出ましになり、瑞穂宮(滋賀県)では、新治宮(茨城県)の前例に倣って「ゆき」・「すき」の宮を作り、大嘗祭をとり行いました。
君(ヒコホホデミ)は、トヨタマ姫に戻るよう説得してきましたが、「みつはめの宮」(貴船神社)を出ることはありませんでした。
明くる年になり、大上君は、わけつち山から、葵と桂の枝葉を袖に掛けてトヨタマ姫のいる貴船神社に行き着きました。
大上君は、持ってきた葉を示して、どちらも左右対称の双葉で片方が欠けている葉はありません。葵も桂も左右対称の双葉だからこそ、葵の葉であり桂の葉と言えるのです。
貴女は世を捨てて人の道を欠いているのではありませんか。と問われ、トヨタマ姫は、自分の取っていた行動に気が付き、恐れながら、人の道を欠いているとは思いませんでした。と答えます。
舟が割れて海に落ち、着ているものを脱ぎ捨て、渚を必死で泳ぎましたが、肌をさらしたあざけりを受けました。産屋では身に何もまとわないで腹這いになっている所を見られてしまい恥を更に重ねてしまいました。どうして、今更、宮に上ることが出来るでしょうか。とトヨタマ姫は答えました。
大上君は、貴女の言うことは恥でも何でもありませんよ。
勝手神が以前申されていたように、覗く恥は貴女にではなく、覗いた君が悪いのです。
しかしながら、左右一対の葵桂の葉のように伊勢の道(男女の道)を得れば、「ひとい」(人の意・相手の気持ち)を悟ることになります。
葵の葉は女性を表し、桂の葉は男性を表していることが分かります。
この大上君の御幸に美穂津姫が付き添ってきておりました。
美穂津姫とはクシヒコ(コトシロヌシ・二代目大物主・通称恵比寿様)の妻です。
大上君が美穂津姫に意見を求めたところ、うなずかれ大上君に御心を痛めることはありません。君ヒコホホデミと姫(トヨタマ姫)とは、日(太陽)と月の関係のように共に睦まじくなさりますよ。なくてはならない関係です。と申されました。
これを聞いて、大上君は喜び、「たけづみ」に豊玉姫を養生させよと河合の国(京都市左京区、高野川と加茂川の合流付近)を賜わりました。
その後、大上君は、貴船神社の山奥の谷を出て、「むろつ」(兵庫県たつの市御津町室津)に着き、ここで遺言をされ、亀舟の到着を待ちました。
「むろつ」で、大上君の御幸の門出を見送り、亀舟に乗った大上君は瀬戸内海を経由して鹿児島に向い、「そお」(曽於)国の高千穂の峰に敬意を捧げました。
大上君は高千穂の峰(霧島山)から「あさま」(朝間・浅間神社・富士山)の方から昇る太陽(日の霊・日の出)に向かってご来光を祈ります。
そこで、この地を「ひむかう国」(日向国)と名付けました。
「ほつま国」に居られる姫(このはなさくや姫)は、「あさま」(朝間・浅間神社・富士山)から、月が沈む西の方角に向かって、月の霊にお辞儀をして敬意を捧げました。
月が西に沈むように、妃(このはなさくや姫)の御霊は、高千穂の峰(霧島山)に沈み、神となられました。
このはなさくや姫は、生前、「あさまの神・浅間神社」や「子安神」と称せられました。
時同じく「いづの神」は、別雷神(わけいかづち)の「すべら神」とも称せられ高千穂の峰の神となりました。
西と東で遠く離れていてもお互いの方を向いて同時に神上がり(お亡くなり)しました。御霊は同じところに居られると言っているようです。
このお二人の神上がりを知ったトヨタマ姫は「わけつち山」(別雷神山)で、48日の喪に服し、その後の一周忌では御饗(みあえ)をして祀りました。
天君(ヒコホホデミ)が、このトヨタマ姫の行いを知り、天児屋根に「よりを戻す」良い方法は何かないものかを尋ね、父上と母上の時の前例があることを知り、更に美穂津姫に詳しく聞いたところ、歌を詠むことを勧められました。
そこで、早速、君(ヒコホホデミ)は、歌にしたため、その歌札を美穂津姫が自分の孫の「いそより姫」に遣わせました。
トヨタマ姫は「いそより姫」を迎い入れ、君からの歌を詠みました。
沖つ鳥 鴨着く島に
我が寝ねし 妹は忘らじ
世(夜)の事々も
沖つ鳥が餌を探し求めてさ迷い歩いているかのように、鴨舟が島に着いたとき(天下・神々から下々まで範疇にして)以来、私はずうっと貴女を探し求めているのです。
私は愛を語らい寄り添って一緒に寝たときの貴方のことは今でも忘れられません。その夜のことも一日たりとも忘れたことはありません。
「いそより姫」は、更に美穂津姫から預かった歌も詠みました。
忌みといい 汚れを絶つる
日の本の 神の心を
知るひとぞ神
出産後の忌み(穢れを避けて謹慎すること)として、穢れを断つために、身を隠してこられました。75日も過ぎ、謹慎期間は既に終わっており、晴れて日の当たる表に出られては如何ですか。
太陽の元の神は君のことであり、君の心を知る人こそ神ですよ。
この歌を受け取ったトヨタマ姫は、返し歌をしたためて、葵の葉に包み、君の歌を桂の葉に包んで、水引草で結び、文箱におさめました。
「ミヒキ草」(水引草・ミズヒキ)とは、紅白に見える花序(かじょ・赤白の花の配列)が水引に似ていて、後に寿に水引が使われるようになった原型がここにあったことを知りました。
この文箱を「いそより姫」は持ち帰り、君に捧げました
君は自ら受け取った文箱の結びをほどき、トヨタマ姫からの歌を詠みました。
沖つ鳥 鴨(天下・神々から下々まで)を治むる
君ならで 世(夜)の事々を
えやは防せがん
さ迷い歩いている沖つ鳥のように貴方が、鴨舟が島に着いた(天下・神々から下々まで範疇にされた)とき以来、貴方以外には今までさ迷ってきた私の「えや」「えやみ・疫病・心の病)を取り除いてくれる人はおりません。
このトヨタマ姫からの歌を三度詠まれた君は涙が止まらず、膝の上に置いていた葵葉に涙が落ち、裳が染まりました。この歌によって二人の気持ちが通じて、お迎いの御輿にトヨタマ姫を乗せて、宮入りし、天下晴れての中宮となられ、万人が喜びました。
今でも、歌は心を癒してくれますが、親子二代にわたって二人が結ばれた、心に響く歌と、この波乱万丈の話に感動し、ホツマ・エッセイとしてまとめてみました。
この宮入りを祝して、こ葵の御衣を錦綾織に残し、菊散(ここちり)と、山葉止色(やまはといろ・山葉留彩)の綾錦を合わせて三つを神の装いとして代々伝えられることになりました。
PS: 「天孫ニニキネ」、「わけいかづち」の天君、「いづの神」、別雷神(わけいかづち)の「すべら神」、大上君は全て同一人物です。
ジョンレノ・ホツマ
古代の人は、禊ぎは身体の穢れを落とし、歌は心を洗うと言っていました。
今回、歌の持つ偉力を実感した二つ目のケースとして、取り上げてみました。二人の間が行き詰っても、最後に解決したのが歌だったからです。
ホツマツタヱ26綾からの抜粋になります。
「ヒコホホデミ」と「トヨタマ姫」との話です。今風に言えば、波乱万丈の物語です。
ヒコホホデミは、「天孫ニニキネ」と「このはなさくや姫」との間に三つ子の末っ子として富士山の麓で生まれ、かっては山幸彦とも呼ばれていました。
一方、トヨタマ姫は九州出身で、ハデヅミ(住吉の神の孫)の娘になります。
当時、九州を治めていたヒコホホデミに、瑞穂の国(滋賀県)に居られた父親である天孫ニニキネから、「天つ日嗣」を譲る(天皇の位を引き継ぐ)ので至急戻ってくるよう伝令が入ります。
天孫ニニキネは、「天つ日嗣」を受け継いで別雷神(わけいかつちの神)となられておりましたが、「天つ日嗣」をヒコホホデミに譲ることに決めました。
天孫ニニキネは日嗣を譲ってからは大上君と称せられます。
この伝令が「おしか」(勅使)によって、筑紫(九州)の親王(おきみ)であったヒコホホデミに伝えられます。
九州を治めている32神は、今までお遣いしていたため、別れることを惜しみました。しかし、日嗣が決められた以上32神は「よろとし」(万・歳)と祝いました。
そして、ヒコホホデミは、筑紫(九州)から、淡海(琵琶湖)の瑞穂の宮に向けて御幸することを決めました。
志賀の浦(志賀島・博多湾)から日本海を北津(敦賀)へ舟で戻ることになりますが、その時、お妃であったトヨタマ姫は妊娠しており、臨月間近になっていました。
そこで、ヒコホホデミは一番速い「大ワニ舟」に乗り、先に行って産屋(うぶや)を作っておくことにしました。
「大ワニ舟」に乗ったヒコホホデミは、志賀の浦から北の津(敦賀)に着き、上陸後、「いささわけ」(伊佐々別神社・気比大神)を経由して、滋賀県の「みつほ・瑞穂」の宮にご帰還されました。
「わけいかづち」の天君も、臣たちも共に、ヒコホホデミの無事のご帰還を喜びました。
一方、お妃(トヨタマ姫)は、生まれてくる子供のためにも、揺れが少なく乗り心地の良い「カモ舟」で北の津(敦賀)まで後から追い駈けて行くことにしました。
ヒコホホデミは北の津(敦賀)に到着するやいなや、松原に産屋を作り始めました。しかし、棟(天上部分)がまだ完成する前に妃(トヨタマ姫)を乗せた舟が到着してしまいました。
臨月を迎えていた妃は、完成まで待っていられないので、そのまま産屋に入って皇子を生んでしまいました。
しかし、この妃の乗ったカモ舟は途中の渚で座礁して割れて、皆、海に落とされてしまう事故に遭います。しかし、溺れることなく、姫はお腹の中の子種を守ろうと必死で磯まで泳ぎ着きます。
その後、磯で見つけた釣り船に乗り、美保崎(島根県三保関)でワニ舟を見つけて乗ることが出来ました。そのため予定より早く到着出来ることになりました。
当時は沖合ではなく、渚に近い(海岸線に近い)ところを航行していて座礁して舟が割れてしまったのだと思います。
さて、ここから大問題が生じます。
男は産屋を覗いてはいけないと注意されていました。更に、当時、産後75日間は母体が元通りになるまで性交渉はいけないとされていました。
君(ヒコホホデミ)は、この北津の松原に涼みに来て、産屋の様子が気になったので、覗いて見ると、たまたま隙間が開いており、あられもない妃の姿を間近で見てしまいました。何も着ておらず、腹這いになって寝ていたからです。
見てはいけないものを見てしまい、慌てて開いていた戸を閉めてその場を立ち去りました。しかし、妃はこの物音で眠りが覚め、あられもない姿を見られた恥ずかしさで一杯になり、居ても立ってもいられなくなってしまいました。
恥ずかしさのあまり、もうここには居られないと、生まれたばかりの赤ん坊を抱きかかえ、弟の「たけづみ」と産屋を後にして、遠敷(おにふ・福井県小浜市東小浜)の宮に行き着きました。
この遠敷の宮で、母(トヨタマ姫)は皇子を抱きしめ、眉・目を見つめながら、皇子に向かって、母は恥をさらしてしまい、もうここにいることは出来ないので、国に帰ります。もう二度と貴方にお目にかかることはないでしょう。 と別れの言葉を言い残し、皇子を置いて行きました。
この皇子は後に「カモヒト・ナギサタケ・ウガヤフキアワセズ」の命という長い名前を賜わり、神武天皇のお父さんになられる方です。
皇子を置き去りにした、トヨタマ姫と弟の「たけづみ」は、朽木川(滋賀県高島市朽木村・安曇川の支流)の添って登り、山を越えようやく三日目に「わけつち山」の北側の「みずはめの社」(貴船神社)に着き、休むことが出来ました。
この事態が「みつほ」宮に伝え知らされたため、皆驚き、「ほたかみ」(穂高見・トヨタマ姫と兄弟)に、トヨタマ姫がその場所(貴船神社)から、一歩も動かないよう説得に向かわせました。
穂高見は朽木谷(滋賀県高島市朽木村・安曇川の支流)を西から南へと、山を越えて、トヨタマ姫のいる「みつは」の宮(みつはめ・貴船神社)に行き着きました。
トヨタマ姫に「瑞穂宮」に帰るよう説得しますが、ガンとして聞き入れませんでした。やむなくトヨタマ姫と一緒にいる弟の「たけづみ」に、この場所を動かないようにと言い含めて、一旦、馳せ帰りました。
心を閉ざしたトヨタマ姫の頑なな気持ちを説得するために、というよりも、日嗣の儀(大嘗祭)をとりおこなう大事な時を前に、お妃がいなければ事が進まないからです。正に緊急事態であったからです。
事態を重く見た「瑞穂宮」は、遂に九州に居るトヨタマ姫の父親の「はでつみ」とトヨタマ姫の妹の「おと玉姫」を、一番速度の速いワニ舟で上京させました。
父親と妹は、瀬戸内海を舟で西の宮に着き、そこから「やましろ」(山背国・京都・貴船神社)に到着し、娘のトヨタマ姫に会います。
父親の「はでつみ」は、君のいる「瑞穂宮」に行くよう説得しますが、トヨタマ姫は国へ帰るので上京はいたしませんと頑なに拒否しました。
トヨタマ姫は、父親に私の代わりに妹の「おと玉姫」を君に捧げてくださいと頼みました。やむなく、父親の「はでつみ」と妹の「おと玉姫」は、共に都へ上京して、このことを申し伝えました。
君(ヒコホホデミ)は、この申し出を受け入れて、妹の「おと玉姫」を妃に召上げました。
大上君は、天の日嗣を若宮(ヒコホホデミ)に捧げるため、「シノ宮」(ヒコホホデミが住まわれていた)に、お出ましになり、瑞穂宮(滋賀県)では、新治宮(茨城県)の前例に倣って「ゆき」・「すき」の宮を作り、大嘗祭をとり行いました。
君(ヒコホホデミ)は、トヨタマ姫に戻るよう説得してきましたが、「みつはめの宮」(貴船神社)を出ることはありませんでした。
明くる年になり、大上君は、わけつち山から、葵と桂の枝葉を袖に掛けてトヨタマ姫のいる貴船神社に行き着きました。
大上君は、持ってきた葉を示して、どちらも左右対称の双葉で片方が欠けている葉はありません。葵も桂も左右対称の双葉だからこそ、葵の葉であり桂の葉と言えるのです。
貴女は世を捨てて人の道を欠いているのではありませんか。と問われ、トヨタマ姫は、自分の取っていた行動に気が付き、恐れながら、人の道を欠いているとは思いませんでした。と答えます。
舟が割れて海に落ち、着ているものを脱ぎ捨て、渚を必死で泳ぎましたが、肌をさらしたあざけりを受けました。産屋では身に何もまとわないで腹這いになっている所を見られてしまい恥を更に重ねてしまいました。どうして、今更、宮に上ることが出来るでしょうか。とトヨタマ姫は答えました。
大上君は、貴女の言うことは恥でも何でもありませんよ。
勝手神が以前申されていたように、覗く恥は貴女にではなく、覗いた君が悪いのです。
しかしながら、左右一対の葵桂の葉のように伊勢の道(男女の道)を得れば、「ひとい」(人の意・相手の気持ち)を悟ることになります。
葵の葉は女性を表し、桂の葉は男性を表していることが分かります。
この大上君の御幸に美穂津姫が付き添ってきておりました。
美穂津姫とはクシヒコ(コトシロヌシ・二代目大物主・通称恵比寿様)の妻です。
大上君が美穂津姫に意見を求めたところ、うなずかれ大上君に御心を痛めることはありません。君ヒコホホデミと姫(トヨタマ姫)とは、日(太陽)と月の関係のように共に睦まじくなさりますよ。なくてはならない関係です。と申されました。
これを聞いて、大上君は喜び、「たけづみ」に豊玉姫を養生させよと河合の国(京都市左京区、高野川と加茂川の合流付近)を賜わりました。
その後、大上君は、貴船神社の山奥の谷を出て、「むろつ」(兵庫県たつの市御津町室津)に着き、ここで遺言をされ、亀舟の到着を待ちました。
「むろつ」で、大上君の御幸の門出を見送り、亀舟に乗った大上君は瀬戸内海を経由して鹿児島に向い、「そお」(曽於)国の高千穂の峰に敬意を捧げました。
大上君は高千穂の峰(霧島山)から「あさま」(朝間・浅間神社・富士山)の方から昇る太陽(日の霊・日の出)に向かってご来光を祈ります。
そこで、この地を「ひむかう国」(日向国)と名付けました。
「ほつま国」に居られる姫(このはなさくや姫)は、「あさま」(朝間・浅間神社・富士山)から、月が沈む西の方角に向かって、月の霊にお辞儀をして敬意を捧げました。
月が西に沈むように、妃(このはなさくや姫)の御霊は、高千穂の峰(霧島山)に沈み、神となられました。
このはなさくや姫は、生前、「あさまの神・浅間神社」や「子安神」と称せられました。
時同じく「いづの神」は、別雷神(わけいかづち)の「すべら神」とも称せられ高千穂の峰の神となりました。
西と東で遠く離れていてもお互いの方を向いて同時に神上がり(お亡くなり)しました。御霊は同じところに居られると言っているようです。
このお二人の神上がりを知ったトヨタマ姫は「わけつち山」(別雷神山)で、48日の喪に服し、その後の一周忌では御饗(みあえ)をして祀りました。
天君(ヒコホホデミ)が、このトヨタマ姫の行いを知り、天児屋根に「よりを戻す」良い方法は何かないものかを尋ね、父上と母上の時の前例があることを知り、更に美穂津姫に詳しく聞いたところ、歌を詠むことを勧められました。
そこで、早速、君(ヒコホホデミ)は、歌にしたため、その歌札を美穂津姫が自分の孫の「いそより姫」に遣わせました。
トヨタマ姫は「いそより姫」を迎い入れ、君からの歌を詠みました。
沖つ鳥 鴨着く島に
我が寝ねし 妹は忘らじ
世(夜)の事々も
沖つ鳥が餌を探し求めてさ迷い歩いているかのように、鴨舟が島に着いたとき(天下・神々から下々まで範疇にして)以来、私はずうっと貴女を探し求めているのです。
私は愛を語らい寄り添って一緒に寝たときの貴方のことは今でも忘れられません。その夜のことも一日たりとも忘れたことはありません。
「いそより姫」は、更に美穂津姫から預かった歌も詠みました。
忌みといい 汚れを絶つる
日の本の 神の心を
知るひとぞ神
出産後の忌み(穢れを避けて謹慎すること)として、穢れを断つために、身を隠してこられました。75日も過ぎ、謹慎期間は既に終わっており、晴れて日の当たる表に出られては如何ですか。
太陽の元の神は君のことであり、君の心を知る人こそ神ですよ。
この歌を受け取ったトヨタマ姫は、返し歌をしたためて、葵の葉に包み、君の歌を桂の葉に包んで、水引草で結び、文箱におさめました。
「ミヒキ草」(水引草・ミズヒキ)とは、紅白に見える花序(かじょ・赤白の花の配列)が水引に似ていて、後に寿に水引が使われるようになった原型がここにあったことを知りました。
この文箱を「いそより姫」は持ち帰り、君に捧げました
君は自ら受け取った文箱の結びをほどき、トヨタマ姫からの歌を詠みました。
沖つ鳥 鴨(天下・神々から下々まで)を治むる
君ならで 世(夜)の事々を
えやは防せがん
さ迷い歩いている沖つ鳥のように貴方が、鴨舟が島に着いた(天下・神々から下々まで範疇にされた)とき以来、貴方以外には今までさ迷ってきた私の「えや」「えやみ・疫病・心の病)を取り除いてくれる人はおりません。
このトヨタマ姫からの歌を三度詠まれた君は涙が止まらず、膝の上に置いていた葵葉に涙が落ち、裳が染まりました。この歌によって二人の気持ちが通じて、お迎いの御輿にトヨタマ姫を乗せて、宮入りし、天下晴れての中宮となられ、万人が喜びました。
今でも、歌は心を癒してくれますが、親子二代にわたって二人が結ばれた、心に響く歌と、この波乱万丈の話に感動し、ホツマ・エッセイとしてまとめてみました。
この宮入りを祝して、こ葵の御衣を錦綾織に残し、菊散(ここちり)と、山葉止色(やまはといろ・山葉留彩)の綾錦を合わせて三つを神の装いとして代々伝えられることになりました。
PS: 「天孫ニニキネ」、「わけいかづち」の天君、「いづの神」、別雷神(わけいかづち)の「すべら神」、大上君は全て同一人物です。
ジョンレノ・ホツマ
#
by hon-hotsuma
| 2015-06-16 18:05
<2015/5/22
昨日(2015/5/21)の明け方近く、突然の稲妻と雷の轟が眠りを中断しましたが、そのうち静かになりまた寝入ってしまいました。
これは正に春雷で、なぜか「わけいかづち」(別雷神)が、思い浮かび、当時のお百姓さんたちが待ち望んでいた雷であったように思えました。
この雷に、水田が水を湛えてくれ、今年も稲が無事育ってくれとの願いが込められていることが思い浮かびました。
天孫ニニキネがなぜ「わけいかつち」の神と慕われ続けたか、以前のブログ2014/12/13ホツマエッセイ「雷を呼ぶ男」にも投稿しましたが、「わけいかつち」とは、「雷よ!湧き起こってくれ!」という意味合いであったと思います。
ジョンレノ・ホツマ
昨日(2015/5/21)の明け方近く、突然の稲妻と雷の轟が眠りを中断しましたが、そのうち静かになりまた寝入ってしまいました。
これは正に春雷で、なぜか「わけいかづち」(別雷神)が、思い浮かび、当時のお百姓さんたちが待ち望んでいた雷であったように思えました。
この雷に、水田が水を湛えてくれ、今年も稲が無事育ってくれとの願いが込められていることが思い浮かびました。
天孫ニニキネがなぜ「わけいかつち」の神と慕われ続けたか、以前のブログ2014/12/13ホツマエッセイ「雷を呼ぶ男」にも投稿しましたが、「わけいかつち」とは、「雷よ!湧き起こってくれ!」という意味合いであったと思います。
ジョンレノ・ホツマ
#
by hon-hotsuma
| 2015-05-22 08:52
ホツマ・エッセイ
この物語は、児童書や絵本の古典としても有名ですが、詳しくは覚えていなかったので図書館にある児童書を借りてストーリーに目を通して見ました。
今、解読中のホツマツタヱ25綾に、この海幸彦・山幸彦が出てきたからです。
この綾の解読が難解なのに面白いのは、表向きに作られた話と、表沙汰に出来ない当時の機密事項が重ね合わせていると思われるようです。
また、立場上、触れたくない内容、不具合な状況など、簡単に事実のみ一言二言書いているだけで、省略されていたり、時間の経過が前後していたり、話が突然とんでいたりするから良く分からない所があるからです。
何が隠されていて、この話にひきつけられるのか、この二人の背景や行動を整理して見れば、問題点が浮かび上がってくるのではないかと思いました。
物語にでてくる主人公である、海幸彦・山幸彦は三つ子の次男と三男です。天照神の曾孫に当たります。
父親は天孫ニニキネ(天照神のお孫さん)になります。母親は「このはなさくや姫」と言います。
生い立ちの始めですが、父親になる天孫ニニキネが、八洲巡り(日本全国の現状を把握)のため、馬に乗った80人ものお伴を従え、開拓しながら御幸していました。
途中、一行を迎えた酒折宮で、ニニキネに御膳を捧げたアシツ姫(大山祇園の下の娘・後の「このはなさくや姫」)と、旅先で一夜の契りを結ぶことになります。
アシツ姫は妊娠し、途中いろいろなことがありましたが最後にハッピーエンドに収まります。この詳細は、以前の「このはなさくや姫」の物語にありますのでここでは省略します。
さて、主人公の一人、海幸彦は三つ子の次男でホノススミ・サクラギと言い、スセリという名前もついています。
吹き出物が出来、酢芹草(スセリ)で掃き清めたら枯れ癒えたのでスセリとも言うようにもなりました。
住まいは、当初、新治宮(茨城県)に住んでいましたが、後に滋賀県の高島市、鵜川(琵琶湖の西側)に移ります。
三男の山幸彦はヒコホホデミ・ウツキネと言い、日光二荒山のふもとの宇都宮に住んでいました。
ウツキネの「ウ」は、卯の花の「う」から来ており、住んでいたところをウツキネのウツを取って「ウツ」の宮とも呼ばれ、今の宇都宮の語源にもなっています。
鵜川(琵琶湖の西側)に住みたいと申し入れたが許されず、滋賀県大津市の「シノ宮」(磯の宮・琵琶湖の南側)という所に移ります。
なお、三つ子の長男はホノアカリ・ムメヒト(梅仁)というハラ君でハラミ山(蓬莱宮・現富士山)の麓に構えていました。
さて、話がかわり、筑紫(九州)で反乱が起きているので皇子に来るよう要望があり、時の天皇であったニニキネはシノ宮(三男坊のウツキネ)に筑紫の親王になるよう命じます。九州を統率する最高責任者です。
この後、話が飛んでおり、このシノ宮(三男)が兄(長男)のハラの宮(ムメヒト)にあいさつに行き、暇を乞い願いに行っています。
頭の中で辻褄が合わず如何したものか考えあぐんでいましたが、やっと納得できるようになりました。
それは、任命されて、筑紫(九州)へ馳せ参じて向かったものの、手に負えず、すごすごと引き下がってきたから、そこの記述が一切触れられていないことを知ったからです。
父親に報告する前に、兄のハラ宮(ムメヒト)へ助けを求めに行ったものと分かりました。そこから、兄のムメヒトと一緒に瑞穂の国に居られる天君(ニニキネ)に謁見に行っています。
報告を聞いて、筑紫(九州)での反乱について、食糧不足が原因であるから、解決までには長期間かかると見ています。天皇(ニニキネ)自らが行って解決しなければと判断されます。
紀元前2500年ごろ九州で大戦乱の跡が残っているのはこの時のことかも知れません。背景には、人口増加によるものと考えられ、大陸から大挙して渡来してきた人たちとの間で食料の取り合いでもめていたものと考えられます。そのため、根本解決のため水田開拓に精を出されます。弥生時代の始まりにも結び付きます。
天皇自らが九州へ行くと同時に、二人の息子(この、海幸彦・山幸彦)に北の津(今の敦賀・今回選抜高校野球で優勝した敦賀気比高校の地元)に行くよう命じています。
ここでも、渡来系の人との間でもめ事が起きていたからだと思われます。
この北の津(今の敦賀)で、二人はある日のこと、持ち物を交換しようという話の展開になります。
次回に続く。
この物語は、児童書や絵本の古典としても有名ですが、詳しくは覚えていなかったので図書館にある児童書を借りてストーリーに目を通して見ました。
今、解読中のホツマツタヱ25綾に、この海幸彦・山幸彦が出てきたからです。
この綾の解読が難解なのに面白いのは、表向きに作られた話と、表沙汰に出来ない当時の機密事項が重ね合わせていると思われるようです。
また、立場上、触れたくない内容、不具合な状況など、簡単に事実のみ一言二言書いているだけで、省略されていたり、時間の経過が前後していたり、話が突然とんでいたりするから良く分からない所があるからです。
何が隠されていて、この話にひきつけられるのか、この二人の背景や行動を整理して見れば、問題点が浮かび上がってくるのではないかと思いました。
物語にでてくる主人公である、海幸彦・山幸彦は三つ子の次男と三男です。天照神の曾孫に当たります。
父親は天孫ニニキネ(天照神のお孫さん)になります。母親は「このはなさくや姫」と言います。
生い立ちの始めですが、父親になる天孫ニニキネが、八洲巡り(日本全国の現状を把握)のため、馬に乗った80人ものお伴を従え、開拓しながら御幸していました。
途中、一行を迎えた酒折宮で、ニニキネに御膳を捧げたアシツ姫(大山祇園の下の娘・後の「このはなさくや姫」)と、旅先で一夜の契りを結ぶことになります。
アシツ姫は妊娠し、途中いろいろなことがありましたが最後にハッピーエンドに収まります。この詳細は、以前の「このはなさくや姫」の物語にありますのでここでは省略します。
さて、主人公の一人、海幸彦は三つ子の次男でホノススミ・サクラギと言い、スセリという名前もついています。
吹き出物が出来、酢芹草(スセリ)で掃き清めたら枯れ癒えたのでスセリとも言うようにもなりました。
住まいは、当初、新治宮(茨城県)に住んでいましたが、後に滋賀県の高島市、鵜川(琵琶湖の西側)に移ります。
三男の山幸彦はヒコホホデミ・ウツキネと言い、日光二荒山のふもとの宇都宮に住んでいました。
ウツキネの「ウ」は、卯の花の「う」から来ており、住んでいたところをウツキネのウツを取って「ウツ」の宮とも呼ばれ、今の宇都宮の語源にもなっています。
鵜川(琵琶湖の西側)に住みたいと申し入れたが許されず、滋賀県大津市の「シノ宮」(磯の宮・琵琶湖の南側)という所に移ります。
なお、三つ子の長男はホノアカリ・ムメヒト(梅仁)というハラ君でハラミ山(蓬莱宮・現富士山)の麓に構えていました。
さて、話がかわり、筑紫(九州)で反乱が起きているので皇子に来るよう要望があり、時の天皇であったニニキネはシノ宮(三男坊のウツキネ)に筑紫の親王になるよう命じます。九州を統率する最高責任者です。
この後、話が飛んでおり、このシノ宮(三男)が兄(長男)のハラの宮(ムメヒト)にあいさつに行き、暇を乞い願いに行っています。
頭の中で辻褄が合わず如何したものか考えあぐんでいましたが、やっと納得できるようになりました。
それは、任命されて、筑紫(九州)へ馳せ参じて向かったものの、手に負えず、すごすごと引き下がってきたから、そこの記述が一切触れられていないことを知ったからです。
父親に報告する前に、兄のハラ宮(ムメヒト)へ助けを求めに行ったものと分かりました。そこから、兄のムメヒトと一緒に瑞穂の国に居られる天君(ニニキネ)に謁見に行っています。
報告を聞いて、筑紫(九州)での反乱について、食糧不足が原因であるから、解決までには長期間かかると見ています。天皇(ニニキネ)自らが行って解決しなければと判断されます。
紀元前2500年ごろ九州で大戦乱の跡が残っているのはこの時のことかも知れません。背景には、人口増加によるものと考えられ、大陸から大挙して渡来してきた人たちとの間で食料の取り合いでもめていたものと考えられます。そのため、根本解決のため水田開拓に精を出されます。弥生時代の始まりにも結び付きます。
天皇自らが九州へ行くと同時に、二人の息子(この、海幸彦・山幸彦)に北の津(今の敦賀・今回選抜高校野球で優勝した敦賀気比高校の地元)に行くよう命じています。
ここでも、渡来系の人との間でもめ事が起きていたからだと思われます。
この北の津(今の敦賀)で、二人はある日のこと、持ち物を交換しようという話の展開になります。
次回に続く。
#
by hon-hotsuma
| 2015-04-17 08:35
以前の記事
2022年 06月2019年 10月
2018年 09月
2018年 06月
2018年 05月
2018年 03月
2018年 01月
2017年 03月
2017年 02月
2017年 01月
2016年 12月
2016年 11月
2016年 10月
2016年 09月
2016年 08月
2016年 07月
2016年 06月
2016年 05月
2016年 04月
2016年 03月
2016年 02月
2015年 11月
2015年 07月
2015年 06月
2015年 05月
2015年 04月
2015年 03月
2015年 02月
2014年 12月
2014年 11月
2014年 10月
2014年 09月
2014年 08月
2014年 06月
2014年 04月
2014年 03月
2014年 01月
2013年 09月
2013年 07月
2012年 09月
2012年 04月
2012年 01月
2011年 12月
2011年 10月
2011年 07月
2011年 06月
2011年 04月
2011年 02月
2010年 12月
2010年 11月
2010年 09月
2010年 07月
2010年 06月
2010年 05月
2010年 04月
2010年 03月
2010年 02月
2010年 01月
2009年 12月
2009年 11月
2009年 10月
2009年 09月
2009年 08月
フォロー中のブログ
メモ帳
最新のトラックバック
ライフログ
検索
タグ
ブログパーツ
最新の記事
書感:EVガラパゴス 周.. |
at 2022-06-03 20:02 |
書感 身の回りの電磁波被爆 .. |
at 2019-10-27 19:18 |
書感:プラスチック・フリー生.. |
at 2019-10-12 09:43 |
ホツマエッセイ イセの道とス.. |
at 2018-09-08 10:33 |
ホツマエッセイ 神社の鈴の生.. |
at 2018-09-07 09:19 |