ほつまつたえ
ホツマツタヱ8綾 「ハタレ」考2
(8綾-29~31)
ねがえばかみの
みゆきなる てくるまのうち ①②
せおりつめ あめのみかげに
あきつめは ひのみかげさす ③
いふきぬし くまのくすひに
まてにあり しろくろこまに ④
もろそひて やまだにいたり ⑤
きじとべば はるなははみち ⑥
のもやまも かえてむらくも
ほのほふく とげやのあられ
なるかみに
① 「てくるま」
Yahoo画像より探し出せたものを3点ほど拝借しました。
添付図は後世ものですがイメージの参考までに。
一番下の絵は「石山寺縁起絵巻から」です。
② 「クルマ」の語源考
群馬県の名前と歴史 – Biglobeの中に、群馬郡(久留間)は古代では初め『くるまのこおり』と呼ばれており、久留間(クルマ)という地名が車(クルマ)という文字で書かれていたようです。「馬が群がれる」という意味も参考になります。
群馬県も1869年(明治2年)の廃藩置県後に『県名』が二転三転した県ですが、最終的には前橋の所属していた群馬郡の名前が採用されました。群馬県の領域は、上代には栃木県域と合わせて『毛野国(毛の国)』と呼ばれており、毛野国を上下に分割して『上毛野国(かみつけぬのくに)』といわれる国が、現在の群馬県と重なっていました。飛鳥時代から奈良時代、平安時代にかけての『律令制』の時代には、群馬県のあたりは『上野国(こうずけのくに)』とされ、栃木県のあたりは『下野国(しもつけのくに)』とされました。そのため、群馬県(上野国)の異称には『上州(じょうしゅう)・上毛(じょうもう、かみつけ)』という言い方もありました。
群馬郡(久留間)は古代では初め『くるまのこおり』と読まれていて、藤原京の遺構から発見された木簡には『車』という一字表記だけで群馬郡を指していました。奈良時代初期に、全国の郡・郷の名を二文字で表記するルールが制定されて、『車』から『群馬』の表記に改められましたが、群馬は『馬が群れる』という意味でありこの地域一体は『良い馬の産地』だったのではないかと推測されています。
③「さす・サシハ」について
「あきつめは ひのみかげさす」
2016/4/16の勉強会で高畠先生が、「アキツ姫」が天照神の日陰を「さす」(日陰を作る)ために掲げていたものを「サシハ」とご説明されていました。
右図は難波宮跡 大阪歴史博物館展示のもの。
④「しろくろこま」について
福島県郡山市田村郡三春町という所に、三春滝桜という巨大な桜で有名な観光地があります。ここには、三春駒と呼ばれている白駒黒駒の郷土玩具が伝統工芸品としてあります。記念切手にもなりました。「しろくろこま」の情報を伝えているように思えます。
⑤ 「やまだ」について
山田という地名が日本各地にありますが、8綾のここでの「ヤマダ」は、仙台市太白区山田本町を示しているように思えます。多賀城や青葉城にも近く、日高見と推定される場所の候補の一つとして取り上げておいても良いと思ったからです。
この地区で古代の膨大な遺跡が発掘されており、一大国家であったことが窺えるからです。
山田条里遺跡(仙台市HPより)
調査区全景 仙台市全景 ●印は山田条里遺跡
所在地 太白区鈎取字東根添、山田字田中前ほか
種別 集落跡,生産遺跡,屋敷跡,包含地
時代 縄文時代・弥生時代・平安時代・近世
解説 名取川左岸の標高30~38mの河岸段丘、自然堤防上にある縄文時代、弥生時代、平安時代、近世の遺跡である。平安時代以降の水田跡の他、近世の屋敷跡が発見された。近世の屋敷跡では西堀が発見され、江戸時代の絵図に描かれた「ヤチヤシキ」と呼ばれる屋敷であると考えられる。
なお、「やまだ」の候補として、天照神が住まわれていた伊勢にある宇治山田も考えられます。魏志倭人伝に書かれている邪馬台国の候補地としては宇治山田の方を示していると考えられます。宇治山田付近は水銀も産出していました。
魏志倭人伝に書かれている邪馬台国とは、山の宝(ヤマタ)のある所(イ)の国のことを意味していたように思えます。日本各地の金山のあるところあちこちにやたらと山田という地名が多いことに気づきます。日本全国、九州から仙台地方まで何処も候補として挙げられます。まさにジパングと呼ばれていたことにも納得がいきます。
一方、魏志倭人伝の卑弥呼とは「ひのみこ」(日の御子・天照神のお子さん・天照神をお守りする)が漢字化されたとき所有格の「の」は省かれ「ひみこ」(卑弥呼)とされたと取られています。当時「ひのみこ2代目」(2代目の斎女)であった「やまと姫」が宇治に決めた経緯があり、年代的に斎宮・宇治山田付近と推定しています。(36綾)
この斎宮後も今後の発掘調査に期待したいと思います。
⑥ 「はるなははみち」について
「はるな」とは、榛名山のことを示していると考えます。近くには伊香保温泉があります。弥生時代以降江戸時代までに浅間山の大きな噴火は3回ありましたが、榛名山も大きな噴火を2度していたことが確認されています。位置的には、浅間山、榛名山、赤城山、日光白根山という火山がほぼ一直線につながっています。
榛名山の大噴火によって灰に埋まってしまった遺跡の発掘調査で、平城京と比べても遜色がないほど大きな規模の県・国の跡が埋もれている可能性があるとのことです。
ボンベイの遺跡は有名ですが、この榛名山の噴火で埋もれていた遺跡の今後の発掘調査が待たれます。
「はるなははみち のもやまも かえてむらくも ほのほふく とげやのあられ なるかみに」
次に「はるなははみち」の「はは」ですが、これは鉄・産鉄のことで、古代の産鉄地であったことを示していると考えます。たたら製鉄以前の古代の野ダタラ(溶鉱炉)がされていたことが推測できます。
野たたら製鉄をしている場所では、山の木を切り倒し、風の通る山の中腹に穴を掘り、砂鉄を溶かすために、木炭を燃やしその上に砂鉄を含んだ土砂を何層にも載せていくことをしていたようです。
大量の木・炭を燃すために、木を伐採された山ははげ山になり、燃え始めるまでは大量の煙が発生し、まさに「むらくも」という表現がぴったりします。燃え始めたら炎が吹き始めます。砂鉄7里に炭3里と言われ、近くに大量の木があるところ、寒風が吹き抜けるところが適していたようです。砂鉄は多少遠くてもかさばらないためであったようです。
群馬県(上州)のことわざに「かかあ天下」に「空っ風・からっかぜ」と「雷」とあるように冬の空っ風の吹く場所が野タタラに適していたからのようです。
本格的なタタラ製鉄(永代タタラ)になっても三日三晩燃やし続けていたようなので、かなり長期間にわたって燃やし続けていたと思われます。
(右図は窪田蔵郎著 日本の鉄より)
今でも、あちこちに古代の野たたらの跡が見つかっています。陥没した野たたらの跡のことを、場所によっては「ダイダラボッチ」という大男が歩いた足跡といっているところもあります。
古代の野たたら製鉄の遺跡として知られているところは、東北地方では青森県4、岩手県3、宮城県2、秋田県1、福島県 4、栃木県2、茨城県1、群馬県4となっています。大部分は破損がひどく、炉底のみが残っている状況で、もっと無数にあったものと推定されています。
参考文献:日本庶民生活資料史集成第10巻鐡山必要記事 三一書房
風と火の古代史 柴田弘武著 渓流社
古代の朱 松田壽男著 筑摩書房
鐡から読む日本の歴史 窪田蔵郎著 講談社 他
by hon-hotsuma
| 2016-05-02 09:18
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