ほつまつたえ


Hotsuma tsutae feelings
by hon-hotsuma
プロフィールを見る
画像一覧

縄文土器の力強さ 

縄文土器の力強さ ホツマ・エッセイ            ジョンレノ・ホツマ

一昨年、ホツマツタヱ勉強会のメンバーと「よしなに計らう」の語源の検証に行きました。

 「よしなに計らう」という言葉は、ホツマツタヱの28綾に出てきます。

辞書には、うまい具合になるように、不具合が生じないように、よろしく、などとありますが、もともとの意味は、3つしかないものを、4人にケンカせずに分け与えたことをいっています。

この語源のもとになったのは、天孫ニニキネとコノハナサクヤ姫との間に三つ子が生まれ、お祝いに4人の信濃の県主がお祝いに駆けつけ、そして、赤ん坊の胞衣(へその緒)を譲り受けに来た時の対応から生まれた言葉だと知りました。
 
具体的にどういうことであったかというと、「よしな」、すなわち、お祝いに駆けつけた4人の信濃の県主・埴科県主、波閇科(はべしな)県主、更科(佐良科)県主、妻科県主がケンカしないようにと、埴科県主には、生まれてきた子供の胞衣ではなく、天照大御神の胞衣が恵那山(恵那神社)に祀られているのを守りなさいという指示を与えたのです。

天照大御神は天孫ニニキネのお祖父さんに当たり、天下を君臨してきたわけですから、新たに誕生した子供と比べて格が違い、文句があるわけがありません。埴科県主は喜んで引き受けたものと思われます。

他の3人の県主は天孫ニニキネとコノハナサクヤ姫との間の子供の胞衣を譲り受けました。

その結果、誰一人、不服、不満もなくこの場が収まった名場面であったと思い描きました。

 さて、ここでの記述から、生まれてきた子供の「へその緒」は、今でも大事に保管する風習が残っていますが、この当時(縄文晩期ごろ)から、胞衣(へその緒)には魂が宿っていると信じられていたようです。

父親から母親に受け継がれた魂が子供へと受け継がれて行き子孫へ受け継がれていく魂が宿っている胞衣(へその緒)を大事に壺(胞衣壺)に入れて奉納してきた風習があったことが分かります。


ですから、この胞衣を納める壺は子孫繁栄を願って、力強く装飾が施されていった経緯が理解できます。

縄文土器が、弥生土器に比べて力強く、装飾が施されてきたのかに気が付いた次第です。

特にこの胞衣壺は大事に保管されてきたので原型をとどめたままの出土も多かったものと思われます。日常的に使われてきた器は風化してしまい現存しているのを見つけるのは難しいと思われ、胞衣壺だけが現存しており発見されてきたものと考えられるからです。

以上
[PR]
# by hon-hotsuma | 2013-07-28 06:42

尖閣諸島

別の調べ物をしているうちに、尖閣諸島についての記述が見つかり驚いています。
これを表に何故、当事者は出さないのか、或いは知らないのか不思議です。

それは久保有政著 日本とユダヤという書籍のなかで 「中国文明との違い」という項目の中に、こういう記述を見つけたからです。

 かっての中国は尖閣諸島は日本の領土と認めていた。1953年1月8日付けの「人民日報」(中国共産党の機関紙)は、琉球に関する記事を載せていて、日本の琉球は7つの諸島から成るとし、その7つの諸島のなかに「尖閣諸島」も含めて書いている。当時の中国政府は、尖閣諸島が日本の領土だとはっきり語っていたのである。
ところが、その尖閣諸島の海域で天然資源が豊富であることがわかると、中国は途端に「尖閣諸島は中国固有の領土」といいはじめた。


この事実を早く表に出すべきと思いました。

以上
[PR]
# by hon-hotsuma | 2012-09-24 21:59

武蔵の国と東京スカイツリー

東京スカイタワーが今話題になっています。展望台が公開され、武蔵の国を一望できるというロマンがあって素晴らしいことだと思います。しかし、このタワーの高さが、「武蔵の国」の「ムサシ」をとって「634」mに決めたと知った時、何か複雑な気持ちになりました。

 というのは、紀元200年頃編纂出録された「ホツマツタエ」を読んで行くと、その中に「武蔵の国」の語源になった記述が出てきます。しかし、当初は「むさし」ではなく、「みさし」・「みさしのくに」と命名されていたからです。「みさし」が時代と共に風化し訛って「むさし」になり、時代が下がって漢字が渡来し「武蔵」という漢字が当てはめられたと考えられるからです。
武蔵の語源本来は「みさし」ですから、「みさし」だと「334」mになってしまうからです。

その前に、「ホツマツタエ」なるものが、世間に広く認められておらず、日本には古事記・日本書紀の編纂以前には文字が存在せず、そんな書物は存在しないという認識の方が大半だと思います。
ですから、世間のほとんどの方も「ホツマツタエ」そのものを御存じないし、こんな話をいきなり言われても「ばか」か「変人」と思われ、とても受け入れられないと思ったからです。
もちろん、スカイタワーの高さを武蔵のゴロ合わせにされた方も、こんな事実があったこととは夢にも思っていなかったと思われます。

  皮肉にも現在の「むさし」の「む」が「みさし」の「み」であったわけですが、一方で、相模という地名について現在は「さがみ」ですが、当初は「さがむ」と「み」ではなく、「む」と逆に呼ばれていたことに不思議な感じを受けます。その土地に住んでいた方々の方言だったのでしょうか。

 さて、「ホツマツタエ」の中にある「みさし」の国と言われるようになった語源ですが、日武尊命(やまとたけ)が、蝦夷(えみし)東征で、駒馬の「鐙(あぶみ)」の片方を落としてしまいます。それを、たまたま拾い上げた「とらかしわ」という武将が届けたところに「武蔵」の語源となった記述が出てきます。
 「とらかしわ」が、この拾い上げた鐙(あぶみ)を榊に刺して「やまとたけ」に献上しました。刺し上げた(差し上げた)わけですが、謙譲語の「み」を付けて「みさし」から「みさしくに」という国名が、このとき初めて名付けられたことが分かります。
 「差し上げる」という言葉も同時にこの時の語源であったことが分かります。
 なお、「とらかしわ」という武将は深大寺の近くの調布市布田の虎柏(こはく)神社に残っています。この虎柏神社の前の通り道の名前が佐須(さす)街道、この付近が佐須(さす)町というのもこれらの事象を裏付けているように思えます。

懲りずに、焦らず、背伸びせず、地道に「ホツマツタエ」に書かれていることを、自分なりに解読し、紹介し続けて行こうと改めて思った次第です。
以下、「ホツマツタエ」(小笠原写本)と「ひらがな訳」の記載部分です。
もし、ご興味のある方は、「ホツマツタエ」 の解読中のブログを覗いてみていただけたらと思います。
http://hotsumatsutae.blog62.fc2.com/e0191707_13382783.jpg

ジョンレノ・ホツマ

・・・・・・・・・・・・・ さかむのたちに
いりませば のにかたあぶみ
とらがしわ ひろいかんがえ
あぶみさし いまたてまつる
たまかざり ほめてたまわる
むらのなも たまがわあぶみ
みさしくに さがむのくにと
もとひこに なつけたまわる
[PR]
# by hon-hotsuma | 2012-04-18 13:38

ほつま・エッセイ  気象神社 

                JR高円寺駅の近くに氷川神社があります。脇に小さな摂社の気象神社という神社があることを最近になって知りました。

名前からしてそれほど古くはないと思い、何気なく由緒書きを見たら、昭和19(1944)年4月10日に陸軍気象部の構内に造営され、戦後の神道指令で除去されるはずが、連合軍宗教調査局の調査漏れで残ったとありました。気象神社なるものは、日本で一つだけだそうです。

更に、驚いたのは、御祭神が思兼(おもいかね)命と知ったからです。なぜだか、微笑ましく思えました。
というのは、この「おもいかね」というユニークな名前の謂われについて、「ほつまつたえ」に記述があったのを思い出したからです。

「あちひこ」なる人物が、天照神のお姉さんの「わか姫」の許へ勅使として来た時、「わか姫」は一目見て恋焦がれてしまいました。「わか姫」は胸の思いを歌冊(うたみ)に染めて(書いて)思い余って(思い兼ねて)、この恋文(歌)を差し出してしまいます。
「あちひこ」はつい受け取ってしまい、突然の告白にどう返事をして良いか窮してしまいます。

きしいこそ つまをみきわに ことのねの とこにわきみを まつそこいしき

この恋文を漢字まじりにすると、
紀州こそ 妻を身際に 琴の音の 床に吾(我)君を 待つぞ恋しき
(紀州にいらしてください。私は貴方の妻となって、いつも、御そばで琴を奏でて差し上げましょう。寝床を敷いて貴方が来られるのを恋しい想いでお待ちしています。)

この恋文は、上から読んでも下から読んでも同じで、回文(廻り歌)になっています。受けたからには返事(かえこと)が出来ない、受けざるを得ない歌であったのです。

しいこそつまをみきわにことの
き               ね↓
 しいこそつまをみきわにことの   
←←←←← ←←←←←←← 

 このことがあって、二人は夫婦になり、「あちひこ」は「おもいかね」という名前になり、天照神のお姉さんであった「わか姫」は「したてる姫」と名乗り、妹の立場に引き下がった経緯があったからです。


では、なぜこの「おもいかね」がここの御祭神になったのか、不思議だったのですが、どうやら、天照大神が天の岩屋戸に隠れられて、世の中が暗闇(日食)になったときの出来ごとに関連していたようです。「おもいかね」が、松明を焚いて暗闇を明るくしたように、空をいつも明るくして欲しいという願いであったと思われます。
また、氷川神社の御祭神である「そさのお」も、この「おもいかね」も、関東には全く関係なく、同じ出雲に関係していたからかも知れません。 
でも、この神社を設立された方は、この「おもいかね」という名前の由来は御存じでは無かっただろうなと思った次第です。 以上

ジョンレノ・ホツマ 2012/1/23
[PR]
# by hon-hotsuma | 2012-01-23 21:41

皆既月食に思うこと・月の大きさを知る

ほつま・エッセイ                               2011/12/20修正
  ジョンレノ・ほつま
皆既月食に思うこと・月の大きさを知る

 11年ぶりに皆既月食が見られるというので、しばらくの間、欠けていく様子を眺めていました。
今では、この月面の欠けは地球の影が投影されていることは誰でも知っていることです。

 このことを、日本の古代の人も理解していたのだと、ふと、合点しました。というのも、地球が丸かったということも知っていたし、月が欠けていくのは、地球の影だということも知っていたと分かったからです。
 月食の様子を見ていて、月面に映っている地球の影の円弧は月より大きいことが目視で分かったからです。

 多分、この欠けの様子を詳しく書き写せば、影から地球の直径と月の直径の比が分かると思ったからです。

 「みかさふみ」という、「ほつまつたえ」と同時期に記されているものに「月の大きさ」などが書かれていることを思い出し、気になり確認してみました。

 地球の影、つまり地球の円弧は月の円弧の約1.5倍程度(当時の測定値での計算では1.63倍)に目視で見えました。但し、正しく測ったわけではなく、思い込みもありますので、あるいはもっと大きかったのかも知れません。
 尚、この値について、「測り方の科学史1地球から宇宙へ・西條敏美著」に、2.6倍であることが記されていたことを後日知りました。

ミ カサフミに「たかまなる綾」(大宇宙の章)という項目があり、記されている内容から、地球の直径114「とめぢ」、月の直径70「とめぢ」と古代の日本人は認識していたことが分かります。
 これは、比に直すと地球の大きさは月の1.63倍になります。まさにこの月食の時に、見た目で、月に投影された地球の円弧の大きさに近いような気がしたからです。
 既に、地球の大きさは何らかの方法で測定(周囲365とめぢ)して知っており、地球の大きさを基準に、月面に映った地球の影と月の大きさを比較したのではないかという思いに至りました。

 参考までに「みかさふみ」の記載から、読みとれる内容を抜粋すると

宇宙の全周(天の胞衣のそとまわり)は「100万とめぢ」、
地球から星までは「15万8千とめぢ」、
太陽まで(ひのめぐり なかふしのとの あかきみち)は「8万とめぢ」、
月まで(つきのしおみち)は「4万とめぢ」、

太陽の直径(ひのわたり)は「150とめぢ」、
月の直径(つきのほど)は「70とめぢ」、
地球の周囲(めぐり)は「365とめぢ」、
地球の直径(くにたま わたり)は「114とめぢ」

      直径         地球からの距離*
太陽  150とめぢ      80,000とめぢ
月    70とめぢ       40,000とめぢ
地球  114とめぢ       ー 
*黄道、公転直径を示しているかも知れません

 面白いと思ったのは、太陽と月の関係です。大きさも距離もほぼ2:1であること。地球から見ればほぼ同じ大きさに見える関係になります。
 その中間に地球があるという風に当時の人は見ていたことが分かったからです。

なお、「とめぢ」という単位について 1とめぢ=38さと とあります。
1さと(里)=約4kmとみると 1とめぢ=約150km考えられます。

1とめぢ=150kmで換算
       直径     地球からの距離
太陽  22,500km   12,000,000km
月   10,500km    6,000,000km
地球  17,100km      ー 



現在の値
      直径        地球からの距離
太陽  1,390,000km  150,000,000km
月       3,500km     380,000km
地球     12,756km   ー 

地球の周囲「365とめぢ」(54,750km)に対し40,075kmで、実際の1.36倍です。
地球の直径「114とめぢ」(17,100km)に対し12,756kmで、実際の1.34倍で誤差範囲と思います。

 地球に関しては、どういう測量方法であったか分かりませんが、非常に正確であったと言えるのではないでしょうか。

 また、周囲「365とめぢ」と外周「114とめぢ」より、円周率3.2と見ていたことも分かりました。

 なお、1さと(里)=約4kmとみましたが、実際はどの程度の長さであったかは解りません。
もし、当時1さと(里)=約3kmであったなら、現在の地球の大きさズバリになります??。

「1さと=36まち」、「1まち=100いき」、「1せ=10いき」と注釈がありますが、これも私には分かりません。

 月食を見ていて、古代の人が、どういう思いで月を見ていたか、垣間見たような気がいたしました。
 
今までの解読では、太陽が地球の周りをまわっていたのかどうかは解りませんが、少なくとも地球が球体であったことを知っていたという記録が残っていること自体素晴らしいことだと思います。

以上、
[PR]
# by hon-hotsuma | 2011-12-14 13:10

古代の刑罰、「ほつまつたえ」より 

古代の刑罰、「ほつまつたえ」より                ジョンレノ・ホツマ

紀元前の古代日本は立派な司法国家であったことが、「ほつまつたえ」より読みとれますので紹介します。

一つは「くらきね」という「いさなぎ」の弟が亡くなってからの話からです。

「くらきね」は北陸を治めていましたが、亡き後「しらひと」なる者が、ますひと(代官)になりました。勝手な行動が目に余ると訴えられます。
その「しらひと」は、邪魔になった母(さしみめ、「くらきね」の妻)とその子供(くらこ姫)を「こくみ」という者の所へ追い出し、「こくみ」は二人を同時に犯して辱めました。
代官の「かんさひ」はこれを正せずにいるという内容です。詳しくは「ほつまつたえ」の7綾(7章)を参照下さい。
直ちに出頭を命じられ、裁判にかけられ判決が言い渡されます。

「こくみ」に対して
1.君(くらきね)の恩を忘れ、葬送の祭りを怠った罪、百科(ももくら)
2.母の厚情による支援を裏切った罪、二十科(ふそくら)
3.母を犯す罪、百科(ももくら)
4.「おしで」(証文)に対する偽証の罪、百科(ももくら)
5.姫をないがしろにした罪、五十科(いそくら)
罪状全てで、三百七十科を申し渡す

「しらひと」に対して
1.君・母からの恩を忘れた罪、二百科(くら)
2.妻を追い出し流浪させた罪、百科
3.母娘を踏み荒らす(狼藉)罪、五十科
4.賄賂(わいろ)を掴(つか)む罪、六十科
罪状全てで、四百十科


ここで、罰則について、「とほこ」の法というが基になっています。
「とほこ」とは、「と」の導き、「と」の教えのことで両大神が天神から授かったもの、そして、「ほこ」は「さかほこ」(栄桙)を示しています。

具体的には、全天、三百六十度を三百六十科としており、三百六十度を四つに割って、

最初の四つ割の一つ、三百六十度の四分の一、すなわち 九十科で「所を去る」
次に四分の二、百八十度(科)で「流離う」(島流し)
次に四分の三、二百七十度(科)で「人との交わり去る」(追放刑)
四つ割の全て、三百六十度(科)で「命去る」(死刑)と罰則が決められていました。

今回の罪は四つ割(三百六十科:死刑)を越えている
よって、「ほころびと」(死刑)の制裁を加える。「つつが」(牢獄)に入れよと申し渡されました。

後日、「もちこ」という天照神の妃の恩赦により罪が半減され、「ひかわ」(斐伊川、島根県)に流刑の身となります。

また、「そさのお」の時の判決についても、同じ7綾の中にあります。

「そさのお」の罪状が言い渡され、罪状は千科もありました。天の巡りで決められた罪状は三百六十科が死罪ですから、何と死罪の三倍も残忍で、三段死(みきだがれ)という三回死ぬ程の惨い死刑を言い渡しました。

刑が執行され、髪の毛は抜かれ、爪も剥ぎとられようとしていて、まさに殺されようとしていた時です。「むかつ姫」(中宮、せおりつ姫)の申し出が勅使より告げられました。

「うけもの」(倉稲神・うけみたま)に祈ったので「はなこ」の御霊は無事天国へお送りしました。よって「はなこ」殺しの四百科は償われましたので、罪を白紙に戻すようお願
いします。「そさのお」の性格は生まれつきの遺伝です。ですから、本人には罪は無いので牢獄から出してやれないものでしょうか。
「ことのり」(情状酌量を願う減刑要請)を諸神が審議した結果、天の理に背く重罪ではあるが、身内の好しみにより、罪を半減して、「まじわりさる」(追放刑)に処することにしました。

紀元前の日本に、この「とほこ」の法という、公平で分かり易い立派な司法制度があったことに驚きます。
自分の認識では、今の交通違反の反則点数のように、罰則規定が、何点になったらどうなる、というのが、この時既に、法が公けになっていたということになります。

紀元前にすでに文字があったからこそ、こういう記録が残ったわけです。
何と素晴らしい文明国であったかと誇らしく思います。
以上
[PR]
# by hon-hotsuma | 2011-10-03 10:45

書感 われ日本海の橋とならん

e0191707_10432670.jpgわれ日本海の橋とならん
内から見た中国、外から見た日本―そして世界
加藤嘉一著 ダイヤモンド社 1500+税 2011/7発行

著者は1984年生まれで、18歳の時に中国へ渡り、中国政府の国費留学で北京大学に入学された若干27歳の若者です。
今や、中国語に関してはネイティブ並みの語学力で、中国メディアからのインタビューが殺到しているそうです。

日本人と中国人の本音とたてまえを知り尽くして、深層心理まで突っ込んでおり、それぞれ両方の立場からの眼で、歯切れよく書かれており、まさに目からウロコです。

私にはこの著者が平成のジョン万次郎の再来のような気がしました。

中国で有名になった発端は、反日デモを見に行った時、生中継のデモ現場に居合わせた留学生として、「デモを招いた原因は中国と日本のどちらにあると思いますか」とマイクを突き付けられて、
「デモが起きるにあたって、日本の国連の常任理事国入りの議論、総理大臣の靖国神社参拝、日米同盟の台湾への影響力強化など複雑な要因が存在しました。それに対し、愛国主義教育の強化によって高揚する中国人民のナショナリズムが呼応し、爆発したかたちです。おそらく、中国人も日本人も今回のデモが外交的な案件であることを理解しているでしょう。そして、外交的な案件である限り、どちらか一方に非があるものではありません。双方の国にはそれぞれの考えがあり、歴史的バックグラウンドがあり、国内に特殊な問題を抱えています。ですから、問題を解決するには日中双方が抱える原因を慎重に探りつつ、互いが建設的な議論をしていかなければなりません。ただし、もしも日本の政治家の中に中国を頭ごなしに見下したり、侮辱するような発言をする人間がいるとすれば、それは同じ日本人として恥ずかしいことだと思います。」と一気に言ったとあります。

このインタビューを受けた翌日から、中国メディアからの取材が殺到するようになったという書き出しに始まっています。

以下、目次内容と気になる項目を列記してみます。
1章 中国をめぐる7つの疑問
反日感情はどの程度なのか
3章 日中関係をよくするために知ってほしいこと
 日本だけが抱えるチャイナリスク
 反日デモとは「反・自分デモ」である
 チャイナリスクとジャパンリスクの関係
4章 中国の民意はクラウドと公園にある
 インターネット人口5億人の衝撃
 お金より大切な「面子」とは
5章 ポスト「2011」時代の日本人へ
 四川大地震をチャンスに変えた中国
 復興には競争原理を持ち込め

本書には、列車事故のことは発行後の事故ですから触れていませんが、東北地震の件については中国人の眼から見た分析は、なるほどと納得できます。

ジョンレノ・ホツマ
[PR]
# by hon-hotsuma | 2011-10-03 10:43

書感 幽体離脱入門

e0191707_16244428.jpg書感 幽体離脱入門

大澤義孝著 
アールズ出版 
2009年10月初版発行

幽体離脱という世界が実際にあるとは感じていましたが、具体的に体験された方の経験談を基に幽体離脱を実際に試してみようという入門書があることに驚きました。

肉体から精神を分離させ、アストラル体で空を飛び、そこの住人と触れ合うことができる幽体離脱。
幽体離脱に必要なのは、「才能」ではなく、正しい知識と練習とほんの少しの勇気。
眠っている体脱能力を開花させ、未知の世界に飛翔しよう!

何度読んでも、私の理解の範囲を越えていますが、この世界が存在するであろうことが分かる気がしてきました。

私自身は本書を読んで実際にやって見ようとは努々思ってはいませんが、「ほつまつたえ」の記述の中に、意味不明で掴みどころがない個所があちこちにあり、そのうちの一つに、まさに本書に書かれているような幽体離脱をした状況の記述に当てはまることに気がつきました。

幽体離脱とは一体どういうものなのか知るには最適の本でありました。
「ほつまつたえ」の記述の中には、夢のお告げによって判断される記述も多く見受けられ、その時の当事者にとってはまさに事実であったであろうと思います。

ほつまつたえの5綾(章)の「いさなぎ」の行動の記述が当てはまります。
熊野に居られた奥さんの「いさなみ」が焼け死んでしまって、突然後に残った「いさなぎ」はどうしても会いたい一心で遺体を見に行きます。決して見に行ってはならないと言われましたが、うじ虫のたかった腐乱した遺体を見てしまい、恐れおののいて足を引き返してしまいます。
しかし、怖いもの見たさに、その夜、再び、今度は神の姿になって見に行きましたという記述があり、幽体離脱して見に行ったのではないかと思えたのです。

アストラル界で見に行った「いさなぎ」(男神)に対して、死者の「いさなみ」(女神)が、現実を受け入れることが出来ずに、貴方は私の見てはいけないもの(恥)を見てしまいましたね。私は恨んでいます。これ以上恥をかかぬよう醜女八人に命じて追っ払います。醜女に追われた神の姿の「いさなぎ」は、葡萄を投げつけ、竹櫛を投げつけ、最後に桃を投げつけて逃げ切ります。夢の中の世界では成り立つ内容だが現実の話ではありえない。まさに幽体離脱の世界を表していると思った次第です。

このあと、「いさなぎ」は、亡くなった「いさなみ」との思いを断ち切らせるため、「よもつひらさか」(黄泉平坂、現世と黄泉(死者)の国の境となる坂)に辿り、誓いました。

「よもつひらさか」は、息が途絶えた瞬間(足を踏み入れた瞬間)に、絶ち塞ぐ境界岩(かぎりいわ)で守られています。

「いさなぎ」は、この道を引き返して(誓いをして)、悔みつつも熊野本宮に帰った後、豊かに光り輝く「やまと」の国にしましたと続いています。

ジョンレノ・ホツマ
[PR]
# by hon-hotsuma | 2011-07-11 16:25

七夕(たなばた)

7月7日の七夕は旧暦では、8月7日ごろであり、そのころ織姫星がちょうど夜空の真上にくるそうです。
七夕は、年に一回、天の河を渡って織姫とひこ星が会える日と習ったことを覚えています。

なぜ「七夕」とかいて「たなばた」と言うのか不思議でしたが、中国の昔からの伝説と日本古来の「たなばた」が、同じ日のお祭りであったため、漢字文化の渡来のとき、日本古来の「たなばた」という言葉(音節文字・表音?)に「七夕」という漢字を当てはめたことがわかりました。

ホツマツタエの1綾に「たなばた」の記述があります。

はつひもち あわのうやまひ(1-3)
もゝにひな あやめにちまき
たなばたや きくくりいわひ

元旦にお餅を供え、天神(天神地祇)の神々をお祭りします。(敬います)
三月三日は(桃の)ひな祭り、
五月五日の節句(あやめ:菖蒲)には「ちまき」で祭り、
七月七日に「たなばた」(「蚕だな」と「はたおり」)の祭り、
九月九日に「菊と栗」の祝い(「ここな」の祭り)をします。
一年に五つの節句があります。

七月七日の「たなばた」は、元々日本古来にあった節句の一つであったのが分かりますが、後に中国から伝わった「織り姫」が「はたおり」と結びついて今の七夕の「織り姫」と「牽牛」の話と一緒になってしまったようです。

織り姫というと何となく夢がありますが、機織りは当時の宮中の子女にとって嫁入り前の必需であったような気がします。
ホツマツタエの6綾の中に、天照神の12人のお妃は皆、機(はた)を織り、操を裁てましたとあります。機織りは当時のステータスであったことが伺えます。ましてや絹織物となれば尚更です。
今の感覚では裁縫ができるようなものであったのではないかと思います。少し昔ではミシンを使って衣服を作るのと、糸を紡いで布を織るのと同じような役割であったのではないでしょうか。


ジョンレノ・ホツマ
[PR]
# by hon-hotsuma | 2011-07-07 19:59

ほつま・えっせい

「ほつまつたえ」に見る神武天皇のお人柄 20111/07/01

「神武天皇」は、自分に負わされた使命感により、最後まで諦めることなく、困難に打ち勝っていく行動力に、いささか感動しました。しかし、一方では奥さんには頭が上がらなかった様子に親しみを覚えたので紹介したいと思った次第です。

九州で政治を執っていた父の遺言を受けるために、「やまと」にいた「たけひと」(後の神武天皇)は九州へ行きます。
父の亡き後を継いで「たけひと」は九州でしばらく政治を執りますが、「やまと」が乱れているので早く帰って治めて下さいと云うはやり歌が「たけひと」の耳に伝わります。
「やまと」に戻ることを決意した「たけひと」は、途中、宇佐、吉備、などを経由して浪速から生駒越えを試みますが敵の抵抗に遭い、作戦を変え、海から紀伊半島を大きく廻り熊野から攻め込むことにします。

同行していた兄たちは敵の矢で射られたり、台風に巻き込まれて海に投げ出されて熊野に上陸する前に3人とも亡くなってしまいます。決死の思いを乗り越えて、敵と相対することになります。
そして、天照神の印した「神おしで」を両方が持っており、敵と思っていたのが実は身内同士であったことを知ります。「たけひと」こそが正統な後を継ぐ人であることが認められます。

さて、ここからが、本題です。

晴れて天下に知らしめた神武天皇は、新しいお妃に「たたらいそすず姫」を迎えます。この「いそすず姫」は右大臣の妹にあたり、神武天皇はどうも頭が上がらなかったようです。
既に九州でお妃にされていた「あびらつ姫」は、お年は召され従順であったように見受けます。一人皇子「たぎしみこ」がいました。

神武天皇は、この「いそすず姫」との間に、子宝が授からからなかったためかどうか分かりませんが、若い「いすきより姫」を3番目の妃に迎い入れようとします。このときは、世継ぎ皇子を途絶えさせないために、12人までお妃を持つことが出来ていたので、当然の行動と思われます。
しかし、内妃「いそすず姫」に咎められ、迎い入れることを諦めます。かなり実権を持っていたように見えます。がんばられて、二人の皇子をもうけ、取りあえず安泰になります。

妻に子供が出来ない時には、妾を置いて子種を残しなさい。という記述もあるようですが、許されなかったようです。
結局、この「いすきより姫」は、殿中に入ることが許されませんでした。神武天皇がお忍びで姫の館にお出かけになり、そこで交わっておられました。姫の名前も「ゆり姫」と変えていました。

そんな中、神武天皇の先妻の長男「たぎしみこ」が、この「ゆり姫」(二十才前)に一目惚れしてしまいます。一騒動ありますが、このままにしておくわけに居かないと心を痛めていたことが伺い知れます。

「ゆり姫」が息子の「たぎしみこ」にガツンと貴方の入り込む隙はないと拒否したので事なきを得ました。もし、そうでなかったとしたら、一人の女性を父と息子で取り合いするわけにもいかず、父が息子に譲ることになっていたのでしょうか。許されなかったと思います。

タイミング良く、越後の謀反を治めて帰ってきた高倉下(後の弥彦神)に、神武天皇は褒美として、この「ゆり姫」を、酒の肴に賜いましたと結んでいます。
今では、セクハラで訴えられてしまいそうですが、当時としては粋な計らいであったと思います。お手付きではありましたが、多分単身者であった70才過ぎの高倉下にとっても、うれしかったと思います。

神武天皇もほっとされたことと思いました。

余談ですが、高倉下と「ゆり姫」との間に子供ができ、その子孫の「よそたり姫」が人皇5代の孝昭天皇の中宮になっています。
神武天皇の世継ぎは「いそすず姫」が生んだ二人の皇子の弟「かぬがわみみ」の方で、綏靖天皇になります。故あって「たぎしみこ」は消されてしまいます。

以上
[PR]
# by hon-hotsuma | 2011-07-01 16:29

カテゴリ

全体
未分類

フォロー中のブログ

メモ帳

最新のトラックバック

ライフログ

検索

ブログパーツ

ファン

ブログジャンル

歴史
語学

画像一覧